トルネコ3異世界178回目(12階も無事に突破)

 「案ずるより産むが易し」で11階時点で持ち物が満杯になり管理不能となっていたが、解決案のひとつとして草と巻物を飲んで読んで識別して、持ち物枠を増やし新しいアイテムを拾う。これ11階でやっておきたかった反省だが12階でやってみた。

 階数+2レベルが崩れてしまったが、まだまだペースとしては楽勝でアイテムのひとつが「ひとくいばこ」だったが難なく倒せた。レベルが上がったところで草を飲んで「ふこうのたね」を引き、1レベル下がるのが実質経験値マイナス1で敵を倒してすぐ元のレベルという定跡手の範囲に収められた。草は全部飲んでしまい、巻物は適度に持ち物が空いたところで残しておいた。草は世界樹の葉の可能性もあるが、未識別で持ちきれないよりは一旦飲んでしまうほうが前進な気がしたので。

 心得として、やらないと進まない時はやる。ただ「今回もダメかもな」という予感がする時は無理にやらないようにしている。「今回は前回よりここが良くなったと思う」という方策が立った時にプレイすると、実りがある。体当たりで何度もやるのが良いことだってあるかもだが、何か未知のスキルがありそれを体得できていないから解けないという立場を取る時に「ひとまずやってみる」というのが既知の行動の範囲では袋小路になる。実際に、長い間袋小路であった。上手い人の動画観戦などももっと積極的にやって良いかもしれない。楽しみが無くなると怖れていたが、楽しみになってきている。

 まあ12分。今日も遊んだ。そして攻略本も買って読んだ時点で既に越していた多くの事に対して「騙された」という感が強かったが、自分が越してきたことにはそれくらいの厚みがあるわけで、それでも何か有益なことは書かれていないか、読み飛ばしが無いかと本の中を探す感覚が戻って来た。

 心に平穏が戻って来た。前進している。根拠は無いが「明日はもっといい日になる」を頭の中で口ずさむくらいの良い心持ちだ。そうそう、11階で便意が来たが、12階に挑む前にはサツマイモのパウンドケーキをひと切れ食べてミルクティーを飲んだ。

 体調を整えて、気持ちの良い時に進めると今のところ上手く行っている。次は13階だから、13階にどんなモンスターが出現するのかくらいは攻略本でも確認できる。そうして予定を立てて、安心した心境で挑む。大したことは書かれていないかもだが、事前にイメトレをするとしないでは段違いの差があるように思う。

 そう、次の階では杖の識別をファーラットを使ってすれば安全度が高そうだなとか。パンも足りている。ただレベルは1つ低いので、何か粘っておかないと20階まで持たないかも知れないみたいな少しの不安はある。

 トルネコ日記は付け始めてひと月ほど経つ(もっと古いものは置いて)しかしまあ、冒険の中で出てくる彼是を全部書いたとして、その通りにやれば行けるかとなると、将棋の定跡が5万ページの本になったとして、それを読んでから戦えば勝てるかとなると、騙されたと思ったトルネコ3の攻略本にしても挑む前にドンと据えられると「え?こんなに?」と尻込みしてしまうかもだ。

 それで行くと、ドラクエIIIの攻略本はほぼほぼ解いてから買ってもらった記憶があり、ウィザードリィに対しては攻略本を読んでクリアしたので迷路の地図を自力では解けておらず、その辺が1階などは手癖になるくらい覚えていたが、5~8階などはすっ飛ばしており、同じように女神転生も記憶に残っていない部分が多い。

 この辺の「見ながらやってせいで失敗から学び取ったのではなく記憶に定着していないけど、事実としては解いたと思っている事」が本当に解いたのかというと本見ただけってところが俺の真の心の弱点なのだろうな。本を読みこんだことをいつの間にか強みだと錯覚して、そして乱読積読になり読破を願っているが、そうではなくファミコン時代の無数の失敗の上に俺の思い描く成功はあって、ストIIが自信だったのもそれだろう。

 物事の成功率を上げなければならないというプレッシャーと日々戦って来た。負けても大丈夫な安心感のある土台を用意するということが出来ていないのが不安の種だ。

 いや負けても大丈夫でも成功の方が良いというのはあるが、その確実性はどこから来るのか?不確実な博打の中にも一片の確実はあるのか無いのか、その辺が論点だった。

 いつしか勝てるようになって「負けたら全部台無しになる」というプレッシャーがかかるようになっていたんだよな。心が壊れたのもその不安に押しつぶされたのもあるだろう。それでも、負けても良いではなく勝とうとする、その意志まで折れるほどの事って何だったんだろうと振り返って思い出さなくてはならない。

 勝つことに対して、勝ち過ぎだと左の人から悪意や敵意がむき出しになって責め苦にあえいでいた。身分の差ではなく努力で克服できるその努力の量に対して「俺らにもそこまでやれって言うのか?」という圧力で持って邪魔して負かして偉そうなのをやめさせてやろうと味方だったと応援してくれていると思っていたところから裏切られ始めたんだよな。

 そこに対して今は「生まれも育ちも良かったんです、身分なんです」という側に立ち直って、あらためて平等、公平を掲げる左と今度は敵として対峙することになって来る。努力を提唱してきた俺だって、受験も難関私立くらいではなく旧帝大クラスになると「そこまで勉強しろってのか?」と思いたくなる部分がある。

 そのへんが積読で未消化になっているものへの念慮として自我偈に苦しむんだ。


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