
露伴というと岸辺露伴のドラマ化くらいしか知らなかった俺でも、努力云々の話を続けていると、古典の努力論の開祖である幸田露伴に行き着いてしまったわけです。
一に本人が事に向かう努力、二にそれを取り巻く努力、また芸術などは努力ではなく才能であると言われがちだが、それでも人は事を続ける限り努力はせずにはいられない。努力は人の営みであるのだから、というようなことが序文に綴られていた。
まあ、俺が今の現状を努力と言って良いかというと、親の加護や病院の先生にお薬の発明とかで生きているわけで、しかし何故に病気になったというと無理な努力であって、努力して努力など叶わない論者になろうとしていた。
いや、努力するなら努力すれば叶う論者に成れよという自己矛盾があって、頑張るのがしんどいから努力なんてしても叶わない論者になると、普通の「やる気なし夫」
そう、一旦「やる気なし夫」になって、それでも暇つぶしにゲームしていると、あるよね、スコアの差とか努力で伸びる部分。そんで抗えないキャラ差ならキャラ変えれば良いわけだし、良いとこ撮って発信したいならそういうビデオ作って配信すればいいよな。そういう風に論理的に何かの努力論の内に間違いが無いか見極めるのも勉強だし、「やる気なし夫」になってから「ちょっとくらいは頑張ってみようか」となって始めた努力は全部実っていると言える。それ以前の病気になる前の努力は頑張っている自分に酔っているだけの自己陶酔型の独りよがりの自分語りだったわけだ。
先に行ったことを重ねるけど、自助によるものではなく共助によるもの。ゲームという役に立たないものに打ち込む時間を周りの人に許してもらって支えてもらって出来る。だから努力論とか今読むと古典だなぁ、と思うのだけれど初めて知ったよね。

神豪鬼をキワキワのAベガで勝ちきった達成感。先日はAテリーで余裕勝ちだけど、今日のような辛勝にまとまると大会とかの大事な場でキワキワの勝負を守り切れるかみたいなトレーニングにはなってるとも思う。
あと、キャラ差ダイヤグラム感も、多くのプレイヤーでの合議によるものについて、多くのプレイヤーなら腕はまばらなわけで、簡単強キャラが強キャラだと評されるし、トッププレイヤー同士なら究めようが難しい簡単キャラにコマンドとかの複雑なキャラが追いついて近かったり抜かしたりもしているものだと思うけど、それが多くのプレイヤーの合議だと「努力して勝った」であって「キャラの潜在能力が高かった」と考える俺とはちょっと開きがあるように思う。
その意味ではタメキャラのガイルとコマンドのケンならケンのが自由に動ける感じもしていたんだけど、キャラ差としてはやっぱガイルの方が大分強キャラよね。一般論的に。その下駄履いた分で多くのケンと良い勝負をしていたわけで、腕前的には負けている勝負をキャラ差で勝っていたのはブラサガとかではなくガイルで色々なキャラに勝った俺も同じなのかナーとも思うなどした。
総評すると、カプエス2一部のトッププレイヤーは群を抜いて強いかもだけど、それに準ずるレベルの人が動画で散見されるかというと、何かのゲームのプロがカプエス2も遊んで初狩りしまくっているだけという印象が残る。ストIIターボや餓狼スぺほどは流行っていなく、人気はつまり参加者数で土台の大きさなわけで積み上がるものもそれにつれて。

それでもポイントとして昨日より伸びていて2166だから、俺これ最盛期事故べスト3400の5位で3100まで出してるの、このチームでも3200くらい取れたら、昔の自分を超えたと言えるかもだけど、実際的には努力実らない論者だったころの自助的努力に酔っていた頃の方がスコアは高いのよね。
その中で軸は「全一取って賞金ガッポリで有名なってスターになってモテモテで」みたいな一攫千金というか優勝さえすればすべての願いが一気に叶うくらいまでもうカプエス2しか眼中にないくらいの世界観から、暇で色々しながらたまに退屈しのぎに遊ぶカプエス2であって、願望はそれはそれで、カプエス2はゲーム機であってそれ以上ではなく、ゲーム機で楽しく遊んでスコアもほどほどにちょっと上手くなれりゃ自己満足だなという風になって心境は幾分というか随分というか、ラクになって来たのよ。
そうなってあらためて、じゃあ自助的努力は足りているかというと、その足りていない部分がハッキリくっきりと見えて来ていて、そこを詰める道の長さ険しさ足るや、それでも自己陶酔していた頃の自分でもその時でもやっぱ足りて無かったろうなと思う。