

はい、200回目は10階でモンスターハウスを引き先細りの剣ー3と白紙の巻物を持っていたにもかかわらず草を飲んでみてルーラ草で敵地の中にルーラで倒された。
甘かったな、最大限安全策でアイテムをケチらず今を生き残る選択をするべきだった。どうにも10階くらいにもなると持ちきれないほどのアイテムをリソース管理するのが億劫になってしまうようだ。俺の経験値が足りない。しかしレベル8ということでトルネコの経験値も足りない。この頃しっかりレベル上げをするようになって、パンに恵まれて順調の時にパンがくさる罠を踏んでしまうケースが何件かあった。覚えていて武器を振っても罠は出ず、忘れた頃にやってくる。ここでパンを守って腹を守りレベルをもうちょっと上げたら、その先に進んで16階からゴーレムをどうするか。
苦手な9~10階あたりをサッサと降りてしまって降りてからアイテムで何とかしようという発想で持ってレベル11で20階まで降りた事もあれば、しっかりレベルを上げて進むもレベル14で16階でゴーレム4体に殴り負けた事もある。このへんのプランニングをしっかりする前に、直近9~10階あたりでよく負けている。
書いても書いてもネタはあり「トルネコ異世界ってどうやったら解けるの?」という漠然とした問いかけは答えるのがあまりに難しいが、解けたという人は誰しも1000階くらい挑んでいて、しかしただ闇雲に1000回やれば1回は運よく解けるというほど甘いものでも無いと思うのだが、学習能力のない人というのも恐らくおらず、誰しも1000回くらい挑めば相応にプレイヤー経験値も貯まるものかも知れない。俺でも出来るだろうか、1000回やってもダメだったらさらなる劣等の烙印を押されないかという一抹の不安を抱くこともあれば、まあ先は長いし気楽に行こうと思える時もある。
1000回というと、バーチャファイター4からバーチャを始めた(バーチャ2を触ったことくらいはあったが対戦にはのめり込まなかった)俺の素朴な問いに「1000試合くらいやったら見えてくると言われている」というアドバイスをくれたゲーム仲間とドラクエⅩの発売日に久しぶりに連絡を取って以来、もう10年くらい経つんだろうか?電話もメールもつながらなくない。いい年したオッサンがオッサンに何の用だと思われるかもだが、オッサンになってオッサン友達がひとりひとりといなくなる寂しさよ。
まあ20代くらいから結婚して奴から付き合いが悪くなると結婚組とまだ遊ぶ組に分かれて、それでも遊ぶ組もやがてみな身を固めて行くのだろうな。俺も続かねばと思うなら女性と付き合わないといけない。しかし直近、相手が既婚で不倫の疑いをかけられていたようだが、知ってしまった以上は友達に戻って距離を取り、新しい相手を探さねばならないなと。
いつまでも越せないトルネコ3ではあるが100回目くらいで感じていた「この浅い階でのレベル上げを何回繰り返さねばならないのか?」という作業感みたいなものが不愉快から愉快に変わってきているのを感じる。繰り返し聴いたアルバムCDの、はじめはスキップしてシングル曲ループだったのがアルバム通して聴くようになり、やがて全曲聴かないと満足できないアルバム病になり、1曲目が序曲で曲間の間がCDからMDに焼いて次の曲に移るまでにタイムラグがあると気持ち良さが半減するというような、分かるかなこの感覚。それが分からなくても、最初の1階のレベル3までのレベル上げが冒険を盛り上げるための序盤として確実性を高めていく楽しさを感じるようになった。5分という長さを何でも無いと思うようになるくらい慣れたということか。
トルネコ3を掘るようになって月日の経つのが速く感じている。8月の終わりごろから二カ月以上ほぼ毎日トルネコ3をしている。それ以前には不思議のダンジョンのもっと不思議やフェイの最終問題を解けずに放ったことに罪悪感があり、異世界という形で再開するも今も勝てない事に敗北感があり、敗北感が劣等感になった頃に今まで他の色々なゲームで負かして「相手にしていなかった人」に対する「負けるってこんな気持ちなんだな」という共感と言って良いか、想像が働くようになり、人生まだやり直せるかもとさえ思えるようになって来た。
そして、やがてそれらの優越感ゲーム、劣等感ゲームの両方とも、ただの固執というように思えて来て、実相はどこにあるだろうと物事をまた違う観察眼でもって見るようになって来た。大得意のストIIは実は克服したかったスポーツ苦手の裏返しで、負けるところから入って強くなっており、反対に子供の頃の大得意で勝つところから入って慢心していたドラクエのキャラクターもの別種のゲームと言えど、ドラクエ系で負けたことを受け入れるにはだいぶ時間がかかった。今でもまだ堪えているくらい。
まあ、今日はお昼にマクドのトリチとそれを消化するのに酵素の入ったアップルパイを一緒に食べたことがものすごい幸福感になっているので、そういう小さな幸せでも日々生きていける。来週には王将のラーメンを食べたいな寒くなってくるとあの麺とスープが旨いのよとか、グルメとか食べ歩きほどの趣味ではなく、家から近いメシのそれもチェーン店のレパートリィでも十分すぎるほどに楽しめる。
バーチャロンだってあるし、龍虎の拳2もあるから、その昔にゲーセンでやり込み切れなかったゲームのリベンジも十分に果たせている。そしてスイッチのスプラ3には乗れなかったけど、それで手持ちのゲームをすると決めたことでトルネコ3が200回になったわけで、あの取捨選択は俺の中では正しかったと思える。
何事も「全部は出来ない」というあきらめと、その中で「俺はもう十分やったのではないか」という慢心が間違っていた事への気付きと、そして時々訪れる希死念慮に対してやり過ごせればまた楽しい日は来るその楽しい目の日が増えて来ているとも思う。
その中で時々「いつまで続けられるんだろう」といういつか来る人生の終わりの日までの逆算的な予定を立てることも必要なのではないかと。流れに身を任せるだけではなく、能動的に何かを勝ち取らねばならないのではないかという思いもある。
今年はあと2カ月だ。スケジュールを立てると二カ月というのは実に色々なことが出来る期間ではあるが、書いてきたようにトルネコ3をしていたらあっという間に過ぎてしまう。その意味では、俺はゲームを断ってそれなりにしてきたこともあるだろう。
ただ、大好きなゲームを「無駄なこと」と辛抱して嫌々やったことに大きな成果はない。反対に自分の人生を虚しくしてしまっていたのだ。好きなことをしながら、他人や社会との関係で必要なことをする。他人から見た役に立つや有意義で自分の人生を犠牲にすることは「お前が消えて喜ぶものにお前のオールを任せるな」だよな。