
厳密にはレベル4になってからスライムベスを倒して草を飲んだらまどわし草だったところから階段で中断するまで7分01秒。
ホントに元気が無くてゲームする気も起きない時でも「トルネコ1階レベル3なら5分くらいで出来るからまずそれをしよう」という習慣で10月に22回プレイした。週5よりちょっと多いくらい。ルーティンではなくランダム性があるので少しは頭を使う。何もしないでぼっとする時間が大事だというが、やはり丸一日何もしないよりはトルネコ3の回数が増えている方が安心感がある。データの積立貯金。
もちろん、ファミコンカセットのセーブデータが内臓電池が切れることで消えてしまうことを知らなかった時にはファミコンカセットにデータを貯めるのも子供なりの安心作業だった。だったが、だからこそそのカセットの貸し借りがセーブのないカセットの貸し借りと子供同士でどれくらい意味の違うことだったか、周囲の大人は理解していなかった。だがプレステくらいになるとメモリーカードが別になって、不揮発性で消えなくなるのだが、パソコンも普及して今度はデータのバブル崩壊が起こる。
「ただのデータ」という言葉が流行って、CD-Rの普及とともに高価だったプレステソフトも音楽CDも「ただのCD」という風に取り扱われ始めた。データに価値があるという事はCDに焼いて保存している時点で自明なのだが、それが何処からどう出来たものかという観点が失われ、ソフトハウスも「ただのデータをカネで売っている」というバッシングを何度も受けた。
その問題はいまも我が事として続いている。誰でもパソコンでもスマホでもアクセスできる「はてなブログ」のサーバーに毎日こうして日記をアップロードする生活に10年ほど前からGoogle社との契約で広告収入が入る仕組みになっているからだ。
今から考えると会社の給料の方がよっぽど高かったが、なぜ自分がそんなにもらえるか理解できず、Googleからもらった初めての報酬が望外の喜びとなった。会社員となって社長や顧客に頭を下げてもらったカネではなく、自分の仕事が売れたと思ったからだ。
だが、ないまぜになっているだけで会社の給料も頭を下げればもらえるとか席に着けばもらえるものではなく、相応の仕事をしながらも会社員なので下手に出るという事を両方やっていたのだ。中学からゲーセンでストIIで「強いやつをゲームで決める」ということを続けてきた俺にとって、会社に入って頭を下げることは人生観から考えて汚点であった。だがな、ヤクザのように「筋を通す」と言っても世界は一線ではない。複雑さを受け入れて今がある。
文筆で伝わるかは分からないが、理路整然としているだけでは対処できない矛盾が世の中にはあるのよ。半導体も何かの事情で本来0であるところが1にひっくり返ったりしていて、それで世の人にどうにか使ってもらっているのだから。