
朝からNHKのニュースで最近の大学生がまた「思考の整理学」を読んでいるという話があった。俺がこの本に触れたのは本屋で何となく並んでいた「超・整理法」という本を手に取り、読み終わってブックオフすると本屋にしれっと「大学生が読んでいる」というポップが添えられた「思考の整理学」が置かれていて手に取ったのであった。
今にして思うと、ただの新書である。他には文庫サイズの「世界史」などにもこのポップが付けられていることがあった。俺が高校の頃にはセンター試験が選択制になり、理系で出題範囲の多い世界史を取らないで社会科日本史で受験した結果、高校で世界史を学ばなかったことが恥ずかしくなった大学生が良く買う本という話で合った。
あーでも47歳のオッサンに「昔読んだわー」などと言われると現役学生のモチベも半減するかもと思われるが、ブログの過去ログで触れていなかったか確認すると、残念ながら触れておらず、しかし「整理」という単語で過去ログを検索すると4800記事中実に185記事で「整理」という単語が使われ、中には「思考の整理」というズバリの文言も登場している。
当然、日本の教育が詰め込み式であることと大学まで来てからその整理が必要であることにはそのままの関連がある。その状態が令和の今も変わらないということは、やっぱり現代の教育も詰め込み式で今の大学生も思考の整理について悩んでいるのだろう。
AIが発達して、コンピュータを使うことの是非が問われる昨今ではあるが、思考というのが何であるか、科学とは何であるかと考えると、物事の法則性には抽象数学をつかうのが一般的で、コンピュータは旧来的には計算機なのだから、数的思考をして本を読む勉強は高校生までに終えておきたいとする向きがあるなか、数学の勉強がしんどいから活字の本で分かりやすいタイトルのものをつい手に取ってしまう。そんな消費原理が見えてくるというもの。
まあ、高校生の半数以上が大学に進学する今の世の中でも博士号を取って研究者になる人はわずか。大学に進んでも大半の学生は就活をして社会と折り合いをつけてゆく。社会というのは国家をはじめとして議員や旧財閥などのお金持ちが地代や配当などの巨額の権利を持っており、人にお金を払って仕事を「させている」ので、そこにあるのは平等ではなく武家社会からの旧態依然とした敬語やビジネスマナーをはじめとした上下関係である。
ここと戦うのをやめたら、学問の意味はほとんど無くしてしまわないかと思う。けれども、その常識は日本人のほとんどがその通りであると信じているから常識なのであって、非常に抗いがたい。もうちょっと若い時に整理が付いていたら、戦い方も変えられたかも知れないなと思うと、今の若い人が昔の俺と同じ本を手に取るというのは世代交代が正しく為されていない危機感すら感じてしまうのである。
手にスマホを持ちながら、何をして良いか分からず「大学生がみんな読む」とポップに書かれた他愛のない新書を手に取って、数学の勉強を嫌い活字の本に目を休める。
昨日は休日を満喫したが、土曜日なのでひと晩明けた今日も日曜日で休日なのだ。恐ろしい。二日も休みがある。持て余している。
やさしい本で物事が片付いてゆけば良いのだがな。選書が安易なんだよな。