トルネコ3異世界212回目(6階まで順調)

 5階でモンスターハウスを引き、銀の矢で殲滅してアイテムはもはや持ちきれず。指輪はちから、ハラモチ、爆発よけと揃っているが合成の壺はまだ。装備はグレイトソードに真紅の盾+2と杖はふきとばし、一時しのぎ、未識別が1本で今まで20階に到達できた要件はほぼ揃っている。保存の壺(5)が4つありリソースはまあ十分。

 まあでも99階どころか自己ベスト更新もまだまだ怪しいだろうなという感じ。そんな予感がするので「今なら行ける」とか「よっぽど暇だ」と思うまで中断セーブで寝かせることとした。

 トルネコ異世界打開は確かに俺には無い体験で、出来る人は運だけではなく何らかの能力があり、俺にはそれは備わっていないから欲しいわけだが、例えば敬愛する音楽家プログラマートルネコ異世界打開者かと考えるとほぼ確実にそうではなく、自分がなりたい人がしているからそうするという意味では、俺にも敬意とか嫉妬の入り混じった人間関係があって、その欲するところにトルネコ3もあるのだよな。

 まあ、関わったからには放っておかないで取り組むというのもひとつだが、奈良学園の旧友で立派だと思う心当たりの人物が例えば俺のストIIに首を突っ込んだかというとそんなことはなく、しかし俺が何かで負けて放っているとすると恐らく「それは負けておいて勉強しろ」というよりは「それも頑張れ」というだろうか。いや人にもよるよな。まあ想像の域は出ない。俺が勝手に作ったメンター像だよな。

 どちらにつけ、一度やろうと思ったことを途中で投げるやつはダメなやつなのかというと、確かに奈良学園から東京大学奈良県立医科大学に進んだものもいるが、じゃあ通らなかった他のものは皆ダメなやつなのかというと、俺よりずっと勤勉で授業態度が真面目でも国公立は叶わなかった者もいるだろう。それらを全て自己責任だと言えるかと考えると、俺も「遊んでいたから」と言われているが、専門学校から真面目にやって二種で応用の勉強は30代で半年ほど真面目にやってダメだった。それも20代や30代の他の時期には「遊んでいたから」になるが、大学を目指すひとつのモチベが親が進学を願って頑張れしてくれて、合格はひとつの勉強からの解放であると夢見ていたことが繰り返しになるがモチベのひとつで、専門学校から二種を取って卒業まで遊び、社会人になっても給料アップもモチベだがいつからか長期休暇を求めるようになった。

 そして今は願いかなって暇をもらったわけだが、お金の面が全く自由というわけでも無く、節約をしているからスイッチのシレン6ではなくGBAのトルネコ3なのである。余計なものは買わず、あるもので遊ぶ。既に相当に散財したが買ったもので残っているものを大事にして、そして貯金を作って次なるチャンスを狙っているのである。

 でも次のチャンスって何だ?ギターの稽古だって半端に15年もやって、そんでアーティストになりたいと言ってもニコニコ動画の駆け出しクリエイターになって、それから鳴かず飛ばず。いや頑張って鳴いて飛んでるつもりだが、なるのが目的だったクリエイターになってみて、収入が598円しかなくて、それでは食えんわけだから、いやこれは形ばかり小銭が入っただけでクリエイターに成ったとも言い難く。

 他の仕事をしながらでも自身がそう思って精進しているなら立派な音楽家だと言う人もいるが、それはその中で一発当たった人の後進へのエールであって、確かに一発も当たらなくても音楽や詩文に打ち込んでそのまま亡くなる方もたくさんいるだろうな。

 ただ、好きなことに打ち込んだ時間が増えてくると「まだ死ねない」みたな思いは段々と和らいで、そして辛い境遇に対する「死んでしまいたい」みたいな希死念慮も和らいで、まあいつかは死ぬだろうけどそれはまだで、残りをどう生きようか考えるよりはトルネコ異世界でもちょっとやってみようかと思った時にそのゲーム機がある幸せよ。

 どちらかというと、ゲームを越してしまった時の目標喪失感が怖かったということがあって、色々なゲームを「いつが面白かっただろう?」と問うと、1本のシナリオでも小学校で必死になって生き急ぐようにクリアまで漕ぎ着けて「何本解いた」みたいな自慢をしていた時には1本の体験に対する感受性が宿題みたいに「終わらせてしまいたいもの」という感もあって、対してSFC版のドラクエIIIを19の時にもう一度遊んだ時には、高校も出て一生遊んでいたいくらいにレベル99にしてパラメータを全部振り切るもMPだけが振り切れず、すごろくかモンスタードロップで出る「ふしぎなきのみ」を後は集めるだけだよなーというところで能西圭一郎に「何かゲーム貸して」と言われそのドラクエⅢを貸してしまいデータを消して返された。

 ブチギレたが、データは戻らず「すいませんお詫びにこれを」とその頃に高値で取引されていたMTGのカード4枚を渡されて女神転生ifのカセットも付けてくれたが、俺はどうしてもそれが悔いだった。わかってたまるかくらいに思っていた。

 だが、ひとつ俺がトルネコ異世界にハマっているのに意識している人物がいるとかいたが、その人はSFC版のデザエモンでドット絵を全部描いて「音楽付けたいねん」と言って作曲をかじった今でいうDTMラーのような友達にカセットを渡して「容量無いから消しちゃったんです」とドット絵を全部消されても「いいよ」と笑った。

 多分、欲しいのはそのメンタリティ。ローグライクのような無駄仕事でも何でもできる、そのメンタリティは上手なやりくりと寛容さが甘え上手と噛み合っていて、確かに俺との付き合いでは俺の方が損しているようにも思えんだけど、じゃあ他の人皆に対してテイカー気質かと言うと、そうでもない人間なんだよな。

 そう、俺の怒りは俺の偏狭さが原因なのかもしれない。何かを成す人間にはもっと辛抱強い人がいる。コスパとかタイパで見る要領の良し悪しや呑み込みの速さ、また人間関係での損得勘定のクレバーさとか、そうじゃなくてひとつの事に向き合っている。

 もちろん、情けない部分も多分にあって、俺との関りがゲーセンゲームで出来た仲で、絵を描くという仕事をサボって格ゲーとかトルネコ3をしているといえばそうだけど、俺の方が色々なゲームをしているものだから、俺の本職がプログラマと言うのも絵の仕事をしたくて専門学校のCG学科に進んだのに、お金がもらえるからプログラマになったみたいな経緯を正直に書きだすと、貧乏してもお金に釣られず自分の表現として絵が描けるかというと、絵を描くとか音楽と言うのは俺の場合は心からその道と言うのではなく世間で良いとされる勉強とそれで出来る会社員みたいな社会の必要性とか需要ニーズに合わせた仕事でしかなく、芸術家になるには人間性の主眼や主張が乏しい。

 まあでもそれは、俺も7年遊んでみて、遊びながら続けたギターでも自分の音楽性は高校の時に初めて買ったCDくらいまで掘り下げて、そっからはテレビで見たラジオや有線でかかっていた、姉のお古のカセットテープをもらったくらいで、某氏は絵の才能は無いと言っていてなぜ描けるかというと、俺が受験で進学校だったように、某氏も小中学校で絵の才能を買われてか美大しか出口の無いような美術を専攻する高校を出ているとの話だった。そんな高校あるんすかね?会話から出てくる学力を考えると中卒もあり得る。少なくとも普通科の高校の学力があるかは分からないが、辞書を引いて俺の言い回しのおかしいところを指摘する時があったりして、まあそれ以上は詮索はしない。

 むしろ、俺の場合でも高校とか専門学校に行っている分だけ学校という特殊空間で世間離れした勉強の期間があったから、常識知らずなところもあって、半端な勉強でアドバンテージになっているところもあるかもだが、自分で気付いていない弱点も多いのだろう。トルネコ異世界打開というと、到底できないだろうと思っていてもしてしまう世界があるかもだし、格ゲーのウメハラ八百長トルネコ打開がチートでも、八百長で鳳翼扇を出してもらったらブロッキングする現場スキルってのはもちろんあるだろうし、チートもマジコンバイナリ解析スキルは当然あるわけで。そのうえインチキ無しでももちろん俺よりずっとゲームが上手なわけで。

 そうすると、子供の時にちょっとマンガ好きだったくらいで画才で他人をうらやむようなのはお門違いだし、それに「その絵が好き」というのではなく「絵で食う道を選んだ」というところに妬いているわけで、そうすると収入を求めなければ俺にもその門戸は開かれていて日本には職業選択の自由があるわけだが、食いもんや身なりが貧しくとも好きなことで生きるのではなく目先のカネに釣られてやりたくない事をタダ我慢しているのは俺の方なんだよな。どちらがウソつきで愚かで数字に弱いかという事なんだ。

 もちろん、某氏だって芸術家然としているわけでは無く、仕事なら不本意でも顧客の求める商業性を持ったイラストなど描くらしい。それが傍目にプログラマよりカッコいい。そういう簡単な嫉妬の構造なのである。あー、簡単だな、俺。

 そうと分かれば羨ましいのはトルネコ異世界打開ではないはずだ。出来る人のダメな特徴を間違えて真似ているだけかもしれない。だがまあ、同じことを追ってみると、最初は「こんなことを懲りもせずによくよくやりますね」と思っていたことが、自然と出来るようになってきている。それが212回目なわけで、あとはイラストでもマンガでも、才能のあるなし以外にどれくらい描いたかって問題に転化して考えるべし。

 絵描きが羨ましいクセに、俺ってほとんど自発的に絵を描かない人なのだよな。そして子供の時に描いた絵と言うと春画と、欲しかったファミカセで買ってもらえなかったやつの箱絵の模写くらい。カメラも持っているから、写真にして欲しいものはパシャッと撮っちゃう。

 そういえば某氏は俺がデジカメを買った時にあまり使わないなら貸して欲しいと持って行ってしまい、フォーカスの機構が気に入らなかったのだろうと思われる(俺もそうだったから)のか、分解して壊してしまい、定価の4割ほどの額を添えて壊れたカメラを返しに来て「ゴメン」と謝った。

 そうさね俺が絵を描かないのはカメラがあるからかな。やはり被写体あっての写実画と写真と人間性から湧き上がる芸術活動としての絵画はそこに確かに技術による差や手慣れはあろうかとも思うが、人としての深さの面で全く及ばないところがある。

 何もないところから「何か描け」と言われて手が動く。これはすごい事だ。

 それは俺が20代で暇した時に100均の無地ノートに女の横顔とストIIリュウの顔を描いて残りは白紙で余して、遊びに来てそれを見た某氏は偉く褒めてくれた。

 懐かしいよな。なんかでも「絵でも描こうか」という風に湧き上がって来るものは今の俺には無い。音楽への情熱も薄らいだ。そして人に知られるほど大成してもいないのに「俺のやりたいことはやった」みたいな小さな達成感の名残が心に宿っている。

 それは以前の虚無感ではなく、小さなほんのちょっとした作画や演奏の積み重ねなのだ。元々がファミコンのドット絵やピコピコ音で育ったものだから、ちょっとした絵とループの音楽が組めて、それがプログラミングでパソコン画面で出来たら、俺は満足なのだ。

 そこまで分かると、もっと心が突き動かされるような新しい芸術との出会いが俺にも必要かもしれず、そしてそれは俺の感受性がブロックされていて、日々の営みから何かを吸収できる素地がなくなっているのかも知れない。

 けどまあ、こんなに筆が進んだという事は文筆的な作家性は多分に刺激されている。

 これは本当にトルネコ異世界の話として投稿してしまって誰かの目に留まるだろうか?それは分からないが、出発点はトルネコ異世界だったのでこのまま投稿する。


🄫1999-2025 id:karmen