
こんにちは!カーメンこと宮澤郷介です!手にはタイトーのプレステソフト「レイストーム」のベストプライス版を持って自撮りしています。
まあ、言い訳から入っておくと俺はこのレイストームを高校の時にゲーセンで遊び、20代にPS2を買ってから遅まきに「THEダブルシューティング」として購入して、大阪で独り暮らしを始めたときに持って行き、そこで知り合った「竹中タカノリ」(確か崇宣)と名乗る人物とバーチャファイター4を一緒に遊んで仲良くなったあと貸したら返って来なくなり、もう一度遊びたいので30代にマックでコピー品を使いました。
その記事がすごく取り沙汰されて、コピーは行かんかなと廉価版でまた買ったという、ゲーセンから数えると3回買っているわけです。まあ、法律ですからね、違法コピーは良くない。咎められた理由はその一点にあり、俺は法を犯しました。謝罪します。
ところで、世の中では法を守ることが善でありながらも、ソクラテスは悪法も法と説きました。悪法なら、その法に従うことは悪とならないか?ここは議論する前に、具体的にどのような法律があって、どういう観点から悪法だと言えるのかの定義が必要です。
俺がレイストームを買い直して、コピーを謝罪することで贖罪をして丸く収めようにも、借りパクされたTHEダブルシューティングが返って来ない事と、竹中君が逃げたまま無罪放免されているのは何かおかしい気がしますが、彼が何故借りパクをしたのか何度もよく考えました。貧しいものにはそれなりの理屈があるわけです。
まずテーゼとして法律順守で行くと「買うことは善」であります。古来の物々交換を便利にするために出来た貨幣は江戸時代には小判でそれそのものに金属としての価値がありましたが、特に戦前戦後あたりから日本でも貨幣では到底買えないような自動車や不動産の売買をするため紙幣と帳簿による商業が盛んになりました。
さらに今年の大河で話題になった「べらぼう」の吉原のように遊女をカネで買うという風俗が日本にはあります。「買うことは善」はこの点において現行法での売春罪にならないかという例外が発生しており、買うは買うでも売春は悪。ここピン止め。
ではゲームソフトを買うことは善なのかというと、これは新しいもので法も風習もまだ馴染んでいないと思っています。「買うことは善」で「盗みは悪」ながら、確かにプレステのCDなら「モノ」で売買できますが、そのデータをコピーしたり、電気通信で交換することがそれ自体「窃盗」に当たるのかというのは議論の分かれるところです。
それで買ったものがお金を払って買っているのに対して、コピーするものが無料で手に入れることを平等公平に反するとして裁こうとする、ここにコピー咎めの一定の理屈があるのだと思いますが、買ったらCDがあってコピーならデータしかない、という理屈は昨今のDL販売の前には成り立たない理屈になってしまいます。
そして、驚くべきことに商業においては「儲かることが善」なのです。これはお商売なので、損得が絡んで理屈はすっかり反対です。「お徳用」のように安いことが購買者にとっても利になり善ですが、売り手にとっての善と購買者にとっての善は一致しません。しかし「買うことは善」という価値観が広く常識となっていることで、売り手は商売繁盛なのです。
ところが、その先にあるのが資本家と消費者の貧富の格差です。ここに「買うことが善」「法を守るのは善」であっても法を守って買っていたものがいつの間にか貧しくなり、「買う」という善を行うお金が無く、商売をして儲けたものが「何でも買える」莫大な資金を持っている。ここに東洋的な善悪の物差しを当てると、富めるものが善とか強いものが善という西洋的な考えではなく「強いものが悪」という思想が芽生えて来るのです。
しかし、そこで法を犯すのは悪です。正しいやり方は選挙による法改正です。投票で選ばれた政治家は善であるわけです。これは非常に時間がかかって回りくどい方法ですが、いま莫大な富を築いた大企業も自民党と共に長い時間をかけてルールを作ってルールを守ってその富をゆっくりと築いてきたわけで、既に東洋的価値観で行き過ぎた悪であったとしても、合法的な手段で戦うと悪法に守られているわけです。
まあ、もっと直接的に少年誌などのメディアは強く富めるものを悪と描いて暴力に訴えるストーリーを子供に読ませていますから、彼らの価値感の中では「悪いやつからゲーム1本取ってやった」くらいに思っている可能性だってあります。当然、法は悪法だと思い込んでいますから、法に則って取り返すことも難しくなるわけです。
「選挙で選ばれた政治家が善」というのも、選挙の前から為政者が善となるのが法の由来なわけで、為政者というのはいつの時代も税収で富んでいるわけですから、市民革命のイデオロギーは常に頒布された法に対しては反対の立場を取るわけです。
俺からすると借りたものを返さないなんて常識に反すると思って腹を立てていたわけですが、相手方はその常識と正反対の思想を持っているかもしれません。
こういう思想は極めて常識外れであることは半分は自覚しております。途中で遊郭の話を書きましたが、取られたものが「ゲームソフト」であることも問題の鍵です。
いくら「買うことが善」でも問題の物は「ゲームソフト」です。社会通念上、金持ちはカネさえあれば働かないで衣食住を整えてゲームをカネで作らせて遊んで良いものなのか、という思想は決して反社会的ではなく、社会的なものです。この話は「働くことも善」としても、ゲームクリエイターは仕事ではなく遊びではないかという問題にも波及します。
しかし貧しいものでもタダで借りられたら喜んで遊んで返すこともしないとなると、「楽しいことは善」という観点でレイストームは間違いなく「善いゲーム」であると思います。それを余ってていらないかのように人に簡単に貸してしまう、その態度に罪があるという逆恨みのようなものを感じている事を付け加えて、長くなりすぎないようにいちど話をここで終わりとします。
竹中君は確かコインパーキングの車止めと代金請求機の設置工でした。真面目に働いて、自腹でPS2を買いバーチャファイター4をゲーセンで競うのではなく互いに自宅で練習しようということになって、じゃあバーチャファイター4が俺と竹中君で2台あればよく、レイストームは浮いたものになっていたのも事実です。
ものを取られるという不幸と信じた友人を失うという二重の災難をレイストームについて思い出してしまうようになりました。それ以前は高校の時に遊んだ思い出とともにあったものですが、ドリームキャストについても同様の事件がありました。
大阪のマンションでひとり住まいをしていたころの人間関係は思い出すと貧しいもので、そして今の生活は陣を分けると為政者側の善に基づく暮らしなのであります。
「買うことは善」「富めることはことは善」その裏側は見ないようにして過ごしています。せっかくお金持ちになってもお金を払って何かを買いながらいちいち売り手の労苦を思うと身が詰まされない思いになって幸福感が無くなってしまうからです。だから俺は手作りの店より工場で安く作られた量販品で暮らす方が幸福だとすら思います。
お金を貰って買ってもらわないと生計が立たないのに、作り手のイデオロギーに満ち満ちたハンドメイドの店で買って恨まれていたら損だと思うからです。そのあたりの気持ちも、このレイストームを巡って考えることになりました。
そのあたりのイデオロギーは現状続いている物価高で世相に反映されています。いつまで続くんでしょうね。そして皆が豊かになる社会と言うのは本当にあるものか。ひとつ整理が付いて物を書くも、書いている内にまた分からなくなってしまいます。