トルネコ3異世界212回目は21階まで

 こんにちは!カーメンこと宮澤郷介です!トルネコ異世界212回目は21階。

 話を始める前に解消しなくてはならない矛盾が実にたくさんあることに気付いて筆が止まってしまった。

 まず、ゲームの結果である。ゲームは何かの役に立つのかという観点に立った時にゲームをすることで何らかの経験が得られてその後に何らかの結果が得られる学習的側面や予行演習的な側面があるという論はゲームそのものではなくその後の結果にこそ意味がありゲームそのものの価値をその後の結果に委ねる格好となっている。

 対して、俺が格闘ゲームをする上でゲームの勝ち負けそのものでチャンピオンであると胸を張っているわけだから、ゲームの結果そのものに意味があるとするならばトルネコ異世界打開は素直にその功績を認めるべきである。俺自身の記録は21階。そして上は99階打開である。

 当然、証拠写真が生成系AIなどで捏造される可能性のある昨今ではあるが、ゲームの勝敗をそもそも気にも留めていないなら、その真偽のほどにもさしたる興味はなく「捏造では無いのか?」と勘繰る筋はもれなくゲームの結果においてその証拠が確定したら負けて悔しい筋なのである。

 しかし、ゲームの結果そのものに意味があると言っても、それは心理的な勝ち負け感以上の意味ではなく賞金などの実益があるかというと、格闘ゲームはゲーセンでやると100円玉がジャラジャラ儲かるわけだが(あるいは自身がプレイヤーなら出て行くわけとなるが)トルネコを掘っても何も無い。時間が過ぎてゆくのみ。

 そこまで行くと、最初の副次的な学習とか予行演習的な意味の話にして良いと思われるのだが、ここで運ゲー論議が持ち上がる。繰り返し遊ぶことで何らかの経験が得られるものなのかというところと、ただ運の良し悪しをはかる抽選会を疑似的に何度もするようなゲームであって、トルネコ異世界を1000回も回す行為が抽選の繰り返しでしかなく謳い文句である「本人の経験になる」という部分の真偽を問うところだ。

 体験的には得たと思うものがあるが1000回も没頭は出来ない。結果が出たのは一昨日で、20階のスクショで終わると含みがあるのでそのままブログの執筆をやめたら何階まで行ったか読者には分からず想像に任せる道も考えたが、書くことにした。

 まあ、得たものがあるというと20階までのゲームなら抽選の繰り返しだが、21階に到達する「当たり」を引いたことは21階と言う新しい世界との邂逅であるわけで、繰り返した先には新しいものが開けて来ている。純然にゲームの中に新しい階がある。

 その経験は繰り返しに思える日々の生活にも気付きを与えてくれた。だが、入れ子のようにその気付きもまた直接の実利ではなく学問を深めるにとどまる。以前読んだ数学の本に「判別関数は宝の山を産む」と言って宝箱の挿絵があるページがあったのだが、まさにペラペラめくって見たその挿絵の宝を夢見て数学の勉強に励んだのだろうと思い直したのである。

 データの塊が宝の山だろうか?それで何が手に出来る?俺のしたことと言えば、いちばんの趣味のゲーセンを堪えることでした100円玉貯金のみではないか。

 ただまあ、ウチの親父がそうであるようにスーパーのチラシの特売を見て、毎日の買い物サイクルで必ず買うような消耗品で保存のきくものを特売価格で買って置いて、無駄な出費を減らすこと。株式投資も色々な指標を見て判断すること、安く買って高く売る、その「安く買う」に関しては自信が付いてきたが、まだ「高く売る」に全く踏み込めていない。親父の商売も基本的には「高く売る」ではなく小売店としての「定価売り」で収入は大抵決まっている。

 まあ、そうすると退屈しのぎに新しいゲームを買うよりはトルネコ異世界をもう一度遊べば、その分だけでも新しいゲームを買うカネが減るので貯金になる。ゲームソフトのこれ以上の実利を求めないなら、これで遊ぶのがひとつの賢さであろう。

 逆説的ではあるが、どんどん新しいゲームを買って世界を広げることにもお金を払って体験を買うという意味で、ゲームを通して何らかの経験を得てそれがその後に実世界で行動する新しい指針になり得るという最初の立場を取ると、トルネコ異世界にこだわるのは世界を狭くする行動でもある。

 こうなると、トルネコ3がどうであるというよりは、その人を取り巻く経済状況と、その後の行動に論点が変わるので、それが何のゲームであれ1本のゲームを遊びこむ意味それそのものを論議し続けてもそれ以上の出口は無い。

 従って、本稿の議論はここまでで締めくくることとする。トルネコ異世界を掘るのはまさに節約貯金生活のマンネリズムの退屈ではあるが、開けたものはあったという事で、だがしかし213回目に即移ろうとはなかなか思えないものなのである。


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