
毎日書くブログが生活の負担になっていた。毎日書くことが力になる、継続は力なりと盲信してきたが、続けることで疲れが蓄積して部屋の掃除や家族との仲を深める時間を放りだして、一家離散しているのに自室に籠ってブログを毎日書いている。病気だ。
そうなってしまったのは文筆家とか科学者に憧れながらも、専門卒で情報処理技術者として働いていた20代から30代はまあギリギリそう見えたかもだが、退職してスーツも着なくなって、親父の営んでいた文房具店の二階にリフォームで出来た子供部屋にずっと住んでいて、親父も年だし客も少なく文房具屋と言ってもシャッターが閉じて廃業寸前の店をどうにかすることも出来ず、ただ学者でいたいというような見栄と執着が俺を文筆に駆り立てているのだ。
この執着は捨てなくてはならないかもだ。そうは思っても、学者でありたいと思うからしてきたことの全て、いやゲームやテレビで道楽しているだけだろ?いやいや勉強せねばならん!みたいな日々の心のせめぎ合いは多分掃除とかが面倒だからなのだが。
一応、除菌ウェットティッシュで使っているノートパソコンの汚れをキレイにして、ホコリ汚れも少し取った。そうしないと風邪を引きやすくなってしまうからだ。
先週は図書館にも行ったが、読書体力が無くなっているように思えた。外は寒く何度も通う元気がないので、部屋にある本を手に取るうちにそういえば昔挑んでダメだったポアンカレの「科学と方法」を読むこととした。
この本に出会うまで、まずは高校の後輩の家を卒業後に訪れた時に借りた森博嗣の「すべてがFになる」以下10巻を読み、そのシリーズの冒頭の引用から中谷宇吉郎の「科学の方法」という本と出会い、そんな事も忘れて暮らすうちに原著と思われる「科学と方法」があることを知って手にしたは良かったが、旧字も多く難読であった。
だが、時は流れ読みたい本も無くあたらめて手に取ったこの本はテーマが今の自分と合致しており、学者とは如何なるものかというところを70年前の数学者が説いたところである。古い本ではあるが、夏目漱石やデカルトを現代でも読む人がいることを考えると、ファミコンのイーアルカンフーから一気にストリートファイターIII3rdStrikeになったような劇的な進化を読書から得られた感じがした。
夏目漱石は文学でデカルトは哲学であるわけだが、ポアンカレになると間違いなく科学である。日本で言うと戦後くらいの時代に持ち込まれた洋書の翻訳ものである。
戦後教育は戦前教育と正反対で絶対に変わらないものは何かと昨年のNHK朝ドラ「あんぱん」の柳井崇(役名)が問うたところではあるが、俺自身は子供の頃は社会科や歴史が嫌いで理科室で実験証明できる理科が好きであった。しかし、中学高校は国語英語が得意科目で学校の数学と理科が難しすぎて嫌になったが、専門学校に進んでみると授業のレベルが自分に合っていてどんどん吸収できた。
だから、もし自分の勉強ペースに合った環境で理科を自習できるならもう一度やりたいと思って40代から仕事をやめて勉強を始めたつもりが、ダラダラとしてそんなには捗らない。そこでふと理科は絶対に変わらない真実なのか、科学とは何なのか、色々とあらためて問う中で、小学校の勉強で理科に夢中になったのは実験証明出来るからで、小学校レベルの再現性すら持たない研究は科学では無いだろうなと思うものの、科学が科学足り得る範囲の学問だけで世の中を見るならフラスコを揺さぶるか顕微鏡や望遠鏡をのぞくくらいしか生きようが無いようにも思える。
もうちょっと科学という括りをほどいて古典を読まないと科学の立ち位置である足場が固まらない。
その上で、あらためて自分の生活を省みると、ゲームをしていても少なくとも方法論だけは科学的になって、その上で発展があってそれでようやく昔に歯が立たなかった相手に勝ててもまだ今のトッププロには敵わないだろうという目算が立ってくる。
今日は科学の話をちょっとしようとか、ゲームを科学すると言っても試す相手をコンピュータではなく対人戦に取った場合、博徒に見えても続けて店番をして輪を作って毎日ゲームをしてくれている界隈があるからそれを実験対象と出来るわけで、俺の研究対象が何であるかというと、その再現性はゲーセンに対戦相手がいる奇跡が都会では毎日の当たり前であるかのような地方東京問題ともつながるのだ。不思議だ。
一見して再現性の無さそうな毎日別々の賭博の中にも開始条件を毎回同一とするような再現性があり、世界を全て知り尽くすことよりは遥かに容易にゲーム機の仕様を全て把握できる。それは世界を全て知り尽くすことよりは比較的にはるかに容易でも、それでも一介の市民には難儀なものであり、そう考えると俺は既に学者とは呼ばれないかも知れないが、90年代のアーケード格闘ゲームの研究家ではあるのだろう。
はじまりが同じで展開が全て機械の中なら、有限要素解析で紐解くと期待値算出できる。しかし、その間に時代は流れ新台が出て勉強の本分もゲームに半分使ってしまったことを考えると、70年前にポアンカレも数学を研究して異国のトルストイを読み、何かを論じる前に自分の立ち位置を捕まえることが既に1冊の本になった経緯がほんのりと捕まえられたようにも思えるのだ。
事に当たる前にする研究を一般に事前研究と呼ぶが、そうする間にも事は待ってはくれない世の中で、俺がした研究よりもゲーセンやトレカショップが継続的に営業されて、楽しんでいる仲間が今もいることに感謝を述べたい。みんなありがとう!
本分足る勉強に戻らなくてはな。それに家の片付けと親父の店と家族の仲。ちょっとゲーム研究に没頭しすぎた今までの人生だと思うが、楽しかったので良しとする。