
こんにちは!カーメンこと宮澤郷介です!諸般の事情でブログは二日休みました。
さて、こうして毎日ブログの文頭に名前を書いて記事を投稿していますが、それで歴史に名を遺したことになるでしょうか?これ、多分ならないんですよね。
別にネットに名前載せて発表するだけなら1記事でもバズればもっと広がるわけだし、それより少なくても、公文書や書籍の形で残せば国会図書館にも所蔵されるし、国が残る限りどこかに正史に織り込まれるかも知れなくて、歴史と言うとそういう文書に基づくわけで、ネットで知名度上がったとしても紙の本に残されないと消えていく。
ああ、5000記事もブログ書くくらいなら、本の1冊でも書こうとするべきなんだろうなとぼんやり思うとともに、NHKのドラマがあるまで牧野富太郎も知らなかったし、南方熊楠も最近まで知らなかった俺でも勉強っちゃ「してる方」で、毎日使っているお札の肖像画の偉人ですら知らずに使っている人がいることも考えると、見つけてもらおうとすれば見つかるところに趣味の界隈で生息している。
やっぱり、自然界で生物ってのは無限に増殖しようとしながらも、他の生物や環境に邪魔されて押し競まんじゅうのように繁殖の限度ってモノがあるんでしょう。同じように有名人がいてもそれを覚えた個体が世代交代でなくなると子供は知らずに生まれて来て、だから歴史が必要かどうかは分からないけど学ばれる中で、覚えてもらえる人が極僅かであるのも仕方が無い事だと思います。
名を残すことなんて拘らずに現世をラクに生きようと思うことも出来ますが、名が手柄と共に残るなら名のある人物に出世することが現世の一番楽な生き方かもしれず、だからその座を狙っての競争があるわけで、その競争に勝たずしてラクな暮らしを得る手段というのもそれはそれで隙間を探すひとつの生存競争での勝ち筋かもしれない。
ブログ記事がバズってアクセスが増えると、ああ広まってくれたと思って脳みそシュワーって幸福感が降りて来るけど、三日も立てば元通りで、ああ俺も何でもなかったんだなという苦みがまたやって来るの。そりゃ毎日色々な情報が飛び交って古い記事は過去ログになるわけですからね。その意味では人の心に一遍の記事と名前が残れば十分で、別に俺の趣味は格闘ゲームとトレカにギターくらいだったんだらから、まずそれに興味のない人まで知っているという所を目指すなら、それそのものの知名度を上げるべくして為されている宣伝と誤解して読み飛ばされて残らない恐れだってあるわけで。
まあ無駄なことやってんですよ。もうちょっと覚えてもらうに値する価値あることを考えて、毎日ダラダラ書くのはやめようかとこの二日は休んでおりました。作詞家の阿久悠さんの名をテレビで覚えて、それなら秋元康とか紀貫之だろと現代に行ったり歴史を読んだりしましたが、その根拠って詩編の数ですよね。下手な鉄砲数打ちゃ当たるかもしれないけど、人の心に残る一遍の歌って数ではなく情感であるわけで。
その意味では、心の通った家族や友との時間を失くして、ひとり寂しく文筆をしているもんだから、せめてこの世の誰かに知って欲しいと思って名を残すとか思っているだけで、電車でも乗れば同じ車両に可愛い女の子はいないかなとキョロキョロちらりと興味が移って、電車の中でも歴史に名を残してやろうなんて思い続けて生きるでもなく。
やっぱり、そうすると俺の中では優先度の低い「小さな夢」なんだろうと思うわけです。歴史に名を残すってのさ。中野サガットって知ってる?まあ自分の趣味でいちばんの人がその人。それも言わば「時の人」で、俺が書き綴ったものが読まれて俺の名ではなくその名が浮かび上がったくらいに俺は思っている。もちろん俺でなくとも誰かが伝える話からでも、届くところにその名はある。
けど昨日まではただ生きているのに必死だった。自殺したら親や友人に昔の恋人が泣いてくれるかと考えたら、まあ親は泣くかもだが友人も恋人も忘れているのではなかろうか。生きてこそ、また何かで名を残す機会もあるやもしれず、俺が今まで残したもので名が残るほどのものもなく、かといって名を残すのは他人なわけで、自筆に名を添えて毎日書くのも何かが間違っているという気がしないでもない。
こうして書き出すと、グルグル回っていた思考がまた一歩過去から未来に向かうように前進したとは思う。それはもっと過去から近い過去に向かって誰かが進んだ歩みともしかしたら重なるだろう。歴史に名を残すという目標それ自体、現代的ではないかも知れないが、現代が現代であることを確認するのに紐解くのもまた歴史なのである。
仏教徒には過去も未来もなく今しかないというような価値観を持つ者もいる。けどその仏教自体も宗教とか哲学のひとつで、存在それ自体が宗教外のものがあって初めて実存するというか、信者で無いものがいるから布教という行為が成立するし、仏教国であったインドが科学技術の流入で近代化してきたりもしている。
ああ、俺が残ろうとした歴史もまた戦後教育の義務教育のいち科目としての歴史の教科書に由来するのだよな。子供がタブレット持ったら歴史の本なんて大した興味も持たないかもな。そのタブレットでゲームの話見たら俺の話も読むかもくらいには思ってた。
まあでもその狙いも、ある程度の狙い通りに生きている内に当たってみると馬鹿げてたな。それでも48歳までの俺の人生がそうであることに変わりはないんだ。