
こんにちは!カーメンこと宮澤郷介です!トルネコ異世界213回目!
久しぶりの挑戦、肩の力も抜けて危ないながらも15位のスコアが出ました。
飽きたと思ったゲームでもずっと持っているとまた遊びたくなる時が来る。よく部屋の片付けで「1年使っていないものは捨てる」とか、古物商の買い取りチラシなどに「大事にしてきたものを次の人に譲る」みたいな事が書かれていて、まあゴミ屋敷の住人として散らかっている事を甘く見てはいけないと思いますが、未練のあるものに囲まれた引きこもり生活はそれはそれで幸福なもんなんです。手放したものでも物持ち良く壊れるまで捨てずに持って置けば良かったなぁと思った後悔が今の俺の行動を変えています。片付けたら、ゲームソフトとかって小さいわけだし詰め込めるものなのよ。
1000回挑むというのは大きな目標ですが、まあ目先1回ずつ。楽しかったウィザードリィ外伝とかも裏ダンジョンまでマップ全部埋めて「結局何も無いんやなぁ」と思って外伝IIIまで買ってしまう始末。外伝IIIではアルケミスト魔法まで全部覚えてキャラレベル300くらいまで上げたけど、忙しくなって辞めたなぁ。トルネコ異世界にはあのウィズの「結局何も無かった」という虚無感ではなく「何度挑んでも勝てない」という無力感みたいなものを感じるんだけど、そのおかげで上手くなったら運良く行ったらまだ先があるというのが希望になった時もあって。
外の広い世界といっても大航海時代より後の時代の生まれで中学高校ともなったら世界地図で勉強する、その世界を本当に旅したいと船乗りになった旧友は思えばウィズでレベル上げを競った仲だった。サムスピとかも一緒にやった。けど長い船旅で見たもののほとんどは海の中船の上から見る星空で、ずっと船に乗って港に着いたら少し異国を楽しんで美味しいものでも食べて、大半は船の中の料理人が作ってくれる食堂のようなメシだったと言っていたなぁ。まあ考えても分かることだけど。
そんな友達も、格ゲーマーで仲良かった絵描きも、やっぱゲームと言うとダンジョン。それはあるいはPONから始まったかもなゲームの歴史も、パソコン時代のウィズとかローグが面白かったという年配世代とも接点が出来たし、暗い部屋で独り遊ぶダンジョンの奥について、全てのゲーム作品は結局何もないコンピュータワールドを如何に何かあるように錯覚させるかという点で共通の目標があるというか。
そう考えると、何も無かったダンジョンの奥ではなく、冒険に出る前の街の音楽とかが心に深く刺さっているよな。今でも思い出せるわ。ゲームに終わりがあってもそこが人生の終わりでない以上は、ゲームが終わった後の人生においてゲームに使ってしまった時間を何らか生活の糧に変えなくてはならないというのが、ひとつゲームクリエイターになってお金を稼いで生活したいという夢だろう。
けど昨日も書いたように、生活があって余暇があってその余暇の退屈を有意義足らしめるゲームという観点に立つと、忙しい合間を縫って遊ぶゲームというのは変だし、退屈があるから対比してゲームが面白いのであって、昨今の俺は明らかにエンタメ疲れでちょっと古くなった言葉だけどデジタルデトックスが本当に効く。ぼーっとしてたら落ち着いて来る。
やっぱね、暇つぶしであるはずのゲームを積みゲーして休暇であるべき時間がプレッシャーで押しつぶされるというのは何処かおかしいんだよ。その意味では物持ち良いのも良いとこもあるけど、お片付けの下手くそな持ち過ぎの罪を背負って生きてんの。
全くやらなくなったゲームを大量に所蔵していて、SNSで手放したゲームの映像が流れると買い戻そうとしてしまう。けど買ってもあんまやらない。そこには満たされぬ独占欲があり、人のものは人のもの、今自分が持っているもので充分という線引きをせねばならず、トルネコの終わり方もまだまだ万策尽きて死ぬ感じでは無く宝を持ち腐れて頓死しているのだから、もう少し上手くは成れるよなとも思ってる。