倫理的問題は好き嫌いには敵わない。それを超える仏法はあるだろうか。

まだ甥のはるくんが幼稚園の時に親族一同で食事をしていたら、姪のもえちゃんの麦茶のコップにこっそりテーブル拭きを絞って汚水を混ぜ込んでニコニコ笑った。それを見た俺は「コラッ」と言ったが何食わぬ顔をしていて親父(はるくんから見ると爺ちゃん)が頬を手で打った。そこで俺ははるくんがなぜ叩かれたか分かるか、その時からずっと考えている。

俺も子供の頃に親父に打たれて泣いたことが何度かある。後から考えると分かったり酔っていたから理不尽に思ったり、またそれらが母親や姉から仕向けられたものではないかと考えたりするのだが、まあ全て理由には納得がいっているので理不尽に思えても親父の性格的な問題なら避けて付き合えばいいので喧嘩なども滅多にない。その分だけ我慢はあるが、親父は俺の食費を出して面倒を見てくれているので、そこには俺の相性的な我慢以上の無償の愛は感じる。

思えば俺の母親も腹が立つと食事に変なものを食わせるタイプで、俺は子供の頃に原因不明の下痢をしていた。お腹が弱い子と思われていたが、まあ月並みに唐辛子とか、意図的に攻撃的な食材選択を母親はしていたと今では思う。まあ、家のカネを全部持って出ていってから気づいてもそれまでは殴る親父の方を悪者だと思っていたのが情けないほどに。

ところで、はるくんは何も意図しないイタズラとして雑巾を絞ったのか。だとすると、そうすることでバイキンが入ってもえちゃんがお腹を壊すところまで医学など学ばなくとも幼稚園のボキャでも説明できそうだ。しかし、もえちゃんをいじめようとして絞っていたらどうだろう。そこまでの悪意でなくとも、兄弟げんかはよくしている。

そうして、兄弟げんかの一環として雑巾を絞っていたら、それはどう嗜めるべきか。悩む。ケンカのルールとして細菌兵器は良くないとしてもケンカにルールなど無いわけだし、もえちゃんがおなかをこわして病院に行ったら可愛そうというのは、はるくんとしてはケンカの相手なのだからむしろ思うつぼというところだろう。

これはもうキリスト教的な隣人愛を説くしか無い。あるいは嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるとか、モノを捨てたらバチが当たるみたいにお坊さんに頼むと何か想像力を刺激する雑巾絞りに対する怖いお仕置きを説いてくれるのかも知れないと思うと、檀家参りの坊さんというのもただのお布施泥棒とは言えず何かしらの役目を背負っているのかもな。

大人になるとそれはダメだと思うことでも子供のうちはそこまで先を考えず目先の問題を短絡的に理解するから、その性質を理解した上で騙そうとするのが宗教の役割のひとつだが、そのウソがよほど巧妙でないと賢い子はウソを見破ってしまうからな。だが、それがウソだから破っても良いと思って破ると、回り回って真理によって自分に不利益が予測される。それが仏罰というやつだ。だが、大抵の場合は仏罰は自然の因果で罰が当たるのではなく破ったことそれそのものがバレて人罰が与えられる。それでは仏法の意味はない。

まあ、それを考えている間にはるくんも大きくなって大人しくなったように見える。一緒に食事をするようなことも無くなったから、その後のことは杞憂というやつだろう。親があんまり先回りして管理してしまうと子供が体験から学ぶ機会を失うものかも知れないし、だからそういう風に大きくなった母親が子供の食事に唐辛子を入れて家のカネを持って逃げるような人になったのだろう。

生まれてきたのも母親がいるからだし、お金は置いておくと取られてもおかしくないと考えることが今の俺の思考を形作っている。若い時から貯金していればもっとお金は貯まっているはずで、後悔することもあるのだが、思い返すと家に置いていて家族に取られたり、ひとり暮らしになってからは泥棒される悪夢にうなされ預貯金よりも刹那的に散財した。

財を成すということも稼いで取ってくる以上に取られないように守ることも難しいことであると心得を学んだことがある。はるくんもおもちゃのひとつでも買ってやりたいくらいに可愛らしかったんだがな。そう思うと雑巾絞りの件もお節介を焼きたくなるのだが。


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