面白がって人を病気に追い込む輩がいるという話

殺人は犯罪である。

しかし、クルマで人を山奥へと運び出し降ろして立ち去ってその人が死んだらどういう犯罪になるか。あるいは近年の法改正でそれもどにか取り締まれるのかも知れないが、科捜研が発達する前は毒殺は魔女の仕業として冤罪処刑されていた。

俺もどういうわけか私怨かなにかで自殺に追い込まれそうになっていた。部屋でひとりでいる時にインターホンが鳴り止まず出ても誰もいない。部屋の外から声がする感じがして見に行くと誰もいない。相談すると病院に連れて行かれて有りもしない幻覚症状の幻聴が聞こえる脳の障害で病名は統合失調症と診断された。

だが、20年かけて原因を探した。自分の病気を治すため医書なども買い集めて読んだ。病院から出されるお薬も騙されたと思って飲んだ。確かに過去の俺は鳴っている音に対するストレスから精神的にボロボロになり、幻聴の陽性症状も出ていたのだろう。

そしてお薬を飲んで病院では薬量を血液検査などで調べて担当医が「こんなにしっかりお薬を飲んで治らないはずがない」とノイローゼになって交代したりで今は4人目のお医者さん、大阪に居た頃から数えると5人目かそれ以上のお医者さんにかかっている。

例えば、俺が部屋でひとりでいる時に昔流行ったインターホンを押して逃げる「ピンポンダッシュ」のようなイタズラを罵声やら何やらで浴びせられ、声がすると思って見たら誰もいないという状況に追い込まれ、相談すると統合失調症と誤謬されるという現象ではないかということもお医者さんに相談すると「それはいったい誰が何のため」ということを立証できないとお医者さんもそうとは言えないけど、その可能性を否定する立証もまた難しい。

結果、お医者さんに警察と相談して本来おとり捜査は禁止であるが、何かの犯罪とも言えない現象なので俺が部屋で引きこもらずに外出してICレコーダーを回し、本当に客観的に聴取できる音が鳴っているかというところで、ついに誰かが俺の視野から見て死角に入りボソッと悪口を聞き取れるかどうかくらいの音量でつぶやいて、黙って逃げていることが判明した。

しかしそれだけでは犯罪にはならないので、逮捕はできないが、警察の方が協力してくれてその声の主が何を狙っているか尾行や調査をして洗ってくれるようになり、それでひとまず少し楽になった。犯人はおそらく複数いるし、もしかしたらそれが流行して無数にいるのかもしれない。

とにかく、そういう事も精神的外傷になるので、無くなる社会になって欲しい。ちょうど日中の外交問題で潜水艦に音波を当てるのは攻撃になるのかどうかということが現在国際法で問題になっているとのニュースが報道されていた。

本当に辛くて首をくくろうかと思うほど追いつめられたこともあったが「あなたが思うより健康です!」とか流行歌に乗せてテレビから暴言吐くのもどこまでアリなんでしょうかね。

近隣の工事騒音とかともデシベルで計って警察と相談して業者と喧嘩してコストコを建てるとか何とかでまだまだ絶賛地上げ中の奈良県大和郡山市からお送りしました。

何を毎日書いてきたのだろうとふと思うほど

珍しく書きたいことのない日である。

書きたいことはいっぱいあるがどう表現すべきか、映像的な記憶を文章にどうまとめるか、または抽象的な哲学でどこに実体を持たせるかみたいなことで悩んできたのだが。

なんか、スッキリとしていて部屋の換気とか台所の掃除とか、ずっと婆ちゃんやママに任せて放ったらかしだったことが母親が家を出て20年、ちょっとだけ姉がしていたようだがその時には俺も家を出ていて。冷凍庫が故障する前は冷凍食品のために皿洗いは9割親父1割俺くらいでしていたのだが、さらにその前はコンロで稀に料理もしていたが、台所が店と親父の仕事机から部屋に置き場がなくなって侵食してきて、もはやそこは昔台所であった場所と言うべきか。

そう、生活をいうものを見直そうと言う気になってきた。テレビゲームと音楽鑑賞が趣味だった俺がパソコンにハマってソフトウェア開発の仕事について、相変わらず趣味はテレビゲームでパソコンゲームもするようになって、音楽鑑賞も続けながらDJ、ゲーム音楽編曲、ボカロ作曲、バンド編曲、キーボード、ピアノ練習、動画がないから飾りだったギターを持って自分で歌う、そのまま作編曲をやめてギターで弾き語る動画にハマっていつの間にか本業よりも音楽の道を目指していたのだけど、パソコンゲームにも一定の満足が来て制作の仕事に可能分量と比較しての諦観を持ったのと同様に音楽もそろそろ頑張って何とかしようとするよりやりたい気分に任せて自然と出てくる以上に頑張ってひねり出そうとしなくなって来たところだ。

そう、生活というものをしよう。生活って何?テレビ見ること?街ブラ?買い物?食事?睡眠?関係ないが飲酒をちょっと控えると、ちょっとだけ頭が冴えてきている気がしたり。夜の時間が長くなったような。IT業界というと夢のお仕事に思う人もいるかもだが、公務員のような技術開発の現場でおしゃれな仕事でモテるやつが羨ましくて、お給料でコンピュータの利用法の中でもエンドユーザ的な芸術の華やかさにつぎ込むことでそれと間接的に関わる裏方のソフトの仕事に夢を見せられないかみたいなことを考えていた。

だから俺の実生活がゴミ野郎であることは隠さないといけないみたいなことから吹き出した思いがこの俺のゴミブログなわけだ。

もう、そんなこと考えなくても良いんだよなって思い始めたら俺の生活を良くすることに気が回り始めたんだ。俺は学習机に置いたMacBookProに終始張り付いている。趣味と住居と仕事が完全にとろけ合ってて、それと離れるために住み方から考え直したい。自分の部屋には寝床と机の前以外に居場所がないし、ギターも椅子を引いて弾いている。それ以外の部屋はモノだらけ。通路スペースしかない台所でタバコを吸ってコーヒーを飲む休憩以外はつぶした倉庫への通路だった裏庭を往復する不外出散歩くらいしか運動もしない。ヨガやストレッチは思い出したらするのだが筋トレは辞めてしまった。

そしてこのブログな。ストリートファイターII'ターボや餓狼伝説スペシャルカルドセプトとマジックザギャザリング。露骨に子供趣味だ。だが子供趣味というのは時代によっても変遷するので、今それに興味があるのは子供の時に遊んだおじさんなのかもしれない。それ関係ばかり読まれるというのもな。いま、それらが過去として整理できそうな何かが起こり始めている。無理にやるかやめるか割り切ろうとせずとも、自然な距離感を取れるバランスになった。

児童ポルノみたいなものを見てしまった

赤裸々に書いているところのある俺のブログであるが、なぜにそんなに赤裸々に書けるかと言うとバカを晒して実はしれっと恋愛とか性についてのことで隠し事をたくさん持っており、全て晒していますという体でそれを隠しているつもりなのだ。

しかし、どこかで触れなくてはならない気がする。贖罪のようなものだ。

そもそも、発端としては田舎ヤンキーのエロ談義とかゲーセンに来ていた低所得労働者のソープ行った武勇伝みたいなのに思春期の時の純愛性向をバカにされた鬱屈があると思う。

男なのに女性作家の恋愛小説を読んでいた。自分が悲劇のヒロインで周りの男は私を捨てるバカ男ばっかりというような短編集だ。今にして思うとちゃんと結婚しないで恋愛に夢を見ている間に適齢期を過ぎてしまったおばちゃんの妄想なのだが、そしてそれも時代が流れると倉田真由美の「だめんず・うぉ~か~」みたいに笑い話として昇華されるのだが、男子校で女子がおらず小説で恋愛を楽しんでいた俺からすると振られた妄想で書かれている男がいったいどうしてそこまでモテるのかみたいな疑問があった。

その正解は24歳くらいまで童貞だった俺がコツコツ貯めていた福沢諭吉のプロマイドをほんの数枚分けてあげるだけで獲得出来ることを知ってしまった。都会の貧乏な女は自分の性を安売りするものである。高いか安いかという議論は実は田舎なら夏目漱石のプロマイドでも楽勝だったりすることなども考えなくてはならないが、当時の俺の金銭感覚と売価の比較からすると安く感じた。

売春は犯罪だが、都会の性風俗はセックスの本番行為つまり受精を伴わない裸同士のプレイで男性の精子を体外に捨ててしまえばそれは売春とは見做さないみたいな屁理屈でフェラまでOKとか、もっとディープなのとか、いろいろあって、しかもモテなかった俺からすると働いている子が全部けっこう美人ぞろいに見えた。

そうこうしている間に病気をもらって医者にかかったりもしたのだが、抗生物質1発で病気は治り治療費は保険が効いて1000円だった。その頃に新札が発行されて福沢諭吉は相変わらずだが5000円がたけくらべになって1000円札がペニシリンになった。そしてテレビとかメディアも「いいぞもっとやれ」みたいなダメな応援ムードだった。

それが変わったのは地元に帰ってきてからだろう。俺の地元は城下町でもともと遊郭があったが女性蔑視であるということで政治が動いてそういう店が無くなったという歴史を持った地域なのである。俺が罰せられることはそれでも無かったのだが、テレビが移すのはミュージシャンやお笑い芸人の不倫をバッシングする放送に変わっていった。

俺としても、自慰行為とか本やビデオがあるので我慢というかそれで済ませることは出来る。そして、恥ずかしいと仕方ないを天秤にかけたり、そういう性交渉をしても新しい家庭を得ることは出来ないという社会常識に絡め取られ、やっちまったことは過去のことなのでそれを隠して生きてきた。

それで今日も用をたすためにネットでエッチな動画を楽しんでいたのだが、そこで初音ミクのコスプレをした少女があられもない姿で自分の自慰を「配信」して、コメントが付いて「来てくれた〇〇さんありがとう!」とかカメラに向かって笑顔を向けながらそこに3000人くらいの視聴者が付いているという世界を垣間見てしまった。

ここは俺の過去よりもどうにかこうにか折衝点を持たねばならない性のモラルが俺の思っていたのと反対の方向で驀進しているように思えたんだ。