GGXX#Rをアクセルで三度目のクリア

 暇なときの過ごし方の第一がテレビで、つけっぱなしなので暇がないというか、ついている番組をパソコン机の背中で聞き、ときに見入ってどんどん時間が過ぎる。

 そんな連鎖をテレビを消して断ち切り、そうすると見たい番組があってテレビをつけるでなく、ゲームでもしようかとPS2の電源を入れテレビをつけるとそこには番組が流れており、外部入力に切り替えるのを少しだけ待つ。今日は「光る君へ」の再放送。

 家にいて、暇で、貯金も生活費もあるのだが、何故かゲームに没頭するのは短い時間で遊べるものくらいで、遊んで終わると得体の知れない焦燥感に見舞われる。

 簡単な答えとしては独身だからだろうな。独りでパソコンゲーム機テレビで完結するというのはどこか人間の動物的なところで無理があるのだろう。

 ゲームの攻略を書くのはどこか躊躇われる。子供の頃はライターになれば好きに遊べてモノが書ける程度に思っていたが遊ぶのも書くのも自己完結的な趣味で満たしていて、そうではなく会社の仕事とか自営業の親父が暮れる小遣いより多い給料を使った大人の遊びとかの方が刺激が強すぎて、子供の頃の夢みたいな今の暮らしが退屈だ。

 ひょっとしたら、やせ我慢で俺は困窮しているのかもしれない。使えるお金が月に幾らくらいだからと計算して、それ以上をいつからか求めなくなった。

 それでも今日の昼はスーパーにのり弁を買いに行くと698円でうな重が並んでおり、手に取った。2リットルのウーロン茶も買おうと思ったが、スーパーから2リットルのボトルが無くなっており、お茶と麦茶の定番だけ2リットルがあり他は全て500ミリリットルで色々な飲み物が揃うように並べられていた。

 帰って食ったうな重はマズくも無いが、期待ほどでも無い。サラリーマン時代に堺筋本町あたりで食ったうな重がふかふかでウマかったなぁ、とか時々思い出し、しかし普段の吉野家や王将でも毎日大体夕飯時には幸福に満たされている。

 手の甲の肌荒れがあり、豆乳、ウーロン茶、野菜ジュースなどを試している。

 ゲーム1回をゲーセン100円と計算して遊ぶと、既にかなりの黒字だが、減らなくなるだけで増えるわけではなく、増やす方法を常に考えているが、増やした後の使い道を考えておらず増やすことそれ自体が目的化しており、お金を使う行為が惜しい。

 それを辞めてまでやりたいことは何だろうと時々思うのだが、読書とギターの練習で切り抜ける。ただし出口はまだ見えない。ゲームはそういえばEVOが開催されているようでエントリーフォームまでは進んだが、ポチれなかった。ストIII3rdくらいしか出来ないし俺の鉄拳は5だからな。そして賞金総額は多いが1ゲームあたりの1位賞金くらいなら持っていて、増える可能性を考えると東京までの交通費と参加費にゲームの買い替え費用などがかなりのリスクに思える。

 ゲーム自体もそんな頭で計算しており、リスクテイクをしないから100円払わずゲーム機で遊ぶわけで、ゲーセンに行くのも遊び代に交通費に外食費と考えると出るわけがなく、同じようにゲームもS弁天狩りのリスクリターンや立ちAをダッシュで抜けれるキャラへの屈HSなど、シンプルなギャンブルに細分化して計算している。そうすると「勝った」はおみくじで中吉が当たった程度の感動でしかなく、しかしまあ画面端KS下D連閃撃FRCダッシュKSJKJHSDアクセルボンバーとかは決めると嬉しい。今日のプレイで1面で1回決まった。12ヒットコンボだ。

 コンボはそれはそれで、畳の間には「ぷよぷよ通」もあるのだが、ハマれない。

 恐らく人の輪にいると、その中で競争心が芽生えて特に異性も混ざって嫉妬心もあると過熱して、それくらいが若い人の普通なんだろうけど、枯れているわけでもないけど競争心とか嫉妬心などの燃える感情はほとんどなく、かといって理性が全てかと言うと、どちらかというと怠惰が勝っていて、ナマケモノの暮らしぶりではある。

 せめてもの読書、せめてものギター、せめてものゲームであり、趣味や特技が無いというのも何だから嗜みとしてやっておこうという事で、すごい向上心があるわけでもない。愚直にやれば伸びるらしいというところを信じて時に愚直にするくらい。

 家には出口はあるが、近所の街は人によって互いに監視されて外という感じがしない。誰もいない原っぱとかに行ければまた感想も変わってくるのかもしれないなと思う。むしろ独りの部屋の中の方が自由に近いが、漏れる音が近所から監視されている感じがするのだ。自分の部屋なんて概念では括れない、疎密の差はあれコミュニケーション空間の中に常にいるのだ。タバコを吸いに裏庭に出るときでさえそのさらに裏のアパートの住人が足音を嫌がる。

 だからか、暇でもゲームは金土日あたりに30分から1時間ほどだ。平日の昼間からしていると通りがかる子供たちの噂の的となる。

 ここは果たして家なのか、宮なのか古都なのか、俺は周囲から何を求められているだろう。ギターを始める前はそこまで音に敏感では無かったようにも思う。過敏症だ。

 たぶん手の甲の肌荒れも何かの過敏症かストレスだとは思う。なかなか治らない。

 もちろん、言うまでもないが、心が荒んでいる。安住の場が欲しい。逃げ場が欲しい。似たような境遇の旧友は皆、鉄道旅とかが趣味になって連絡を絶った気がする。

 恐らく趣味がつまらないのではなく、静かに暮らせる家が周囲からの音に敏感になって平穏が失われたので、趣味に没頭できるまで心のエネルギーが回復しないのだと思う。疲れている。ずっと疲れている。それでも30分くらいはゲームをする。

 ちなみにKS下D連閃撃FRCは浮くが、浮かせない(FRCしない)ならKSSHS連閃撃のほうが減る。他の人に分からないゲームの内輪の話が女の噂の的にならないホモソーシャルの中での言論の自由なのかもしれない。MTGも然り。

 2~3分のギターはその30倍くらいのゲームより疲れるのは噂が付きまとうから。 

GGXXのダイヤグラムは勝者の独断

 まあ昨晩はGGXX#R(青リロ)を晩酌の酔いが抜けてから寝る前くらいにふらふらと遊んでいたわけです。個人的には買い替えで手放してしまったGGXX無印が恋しく、そっちのほうがアクセルとソルのコンボが減るからなんです。

 皆が強すぎると言って、実際勝っていて、そして青リロで不服が無くなったから、まあそれでいいだろうと為政者の気分になって「よきにはからえ」をしていたら、ACあたりでもうバランスはメチャメチャになってしまったようです。

 なぜなら、GGXXはコンボ操作が複雑なうえタイミングがシビアで、半分減るコンボがそのキャラにあったとして、最初の技が決まっていてもちょっとしたミスで1割くらいしか持って行けず終わるということは並レベルでよくあることなんです。

 対して、GGXX無印の頃、そんなコンボを家庭用で練習して仕上がっているのに「強すぎる」と言われて、まああの頃は「お前らのやり込みが足りねぇんじゃね?」くらいに思っていたのですが、FRC(青キャン)とか極めても俺のキャラそこまで減らねぇみたいな事案はあり、青リロで他キャラが強くなるとしたらそれは良いんだけど、なんで俺のキャラ弱くなったの?みたいなガッカリ感はあったわけで。

 まあそんでも「みんな」ってどんくらいか分からないけど、各地で稼働して大会もあって、観測的には青リロがいちばん流行ったらしいので、今更にそのバランスは押さえておこうと自分を納得させるためにやるわけですが。為政者ではなく参加者したいなぁ、みたいな思いも込めて。

 ただまあ、この頃から人が増えるというのは肌感覚であって、コミュというかゲーセンの寄り合いに「お前誰やねん?」というか丁寧に言うと「どなたですか?」みたいな人に周囲を囲われて「カーメンさん、カーメンさん」と呼ばれて皆が口々に言う。昔からの友達とはぐれて良く分からない人に囲われて、そしてゲームを一番強いわけでもないのに話のまとめ役になる、その結果が「よきにはからえ」でのバランス破綻。

 するってーと、文句言わずに白痴のようにゲームをしている人同士で「これ以上は手が見つからない」というところでダイヤを出すという作業をしつこくやっていた頃に比べて仕事サボって大雑把という感は今更にあの頃はヤバかったなと思うわけです。

 まあでもメーカー勤務とかだと売り上げとか従業員の満足度とかもあるわけで、ゲームの中身なんて知ったこっちゃねぇてか、その頃の俺らの中身はプログラミングで対戦バランスがいいよりコードの保守性とか、拡張性とか、もっと稼げるネットゲームとか、そういうことに関心は移ってて、格闘ゲームは廃れても良いみたいなのは俺らが飽きたからっていう勝手な理由もあったわけで。

 それでファンが今でも青リロを求めているってのは振り返って分かるんだけど、それは「これ以上ない」ってところまでGGXX無印が遊ばれてのことであり、バランスに難は結果としてあったとして、遊んでいく過程ではGGXX無印が面白かったのではないだろうか、とも思うけど、俺がソルアクセルで勝っていたようにやられる方の不服というか、家庭用での練習がないアーケードゲームとしての手軽さはその時点で既に損なわれており、その点まで含めても新参者が現れた青リロは良作なのかもなと。

 だけどそのダイヤグラムっちゃ、結局素人には難しいわけで、闘劇出た人がそうだって言ってんだからみたいな決まり方をしていて、ほとんどの参加者からしたら上手いと思う人が勝っていて、不服は少なかったんだと思う。

 そんで俺の今の関心は現場はどこかって事でもあり、世のどこかのゲーセンではGGXX#Rがまだ稼働しているのか、パソリロなどのネット対戦か、それとも懐かしいゲームとしての中古市場か、とかくGGXXって俺も好きだけどストIIほどは売れちゃいない。でも餓狼スペシャルくらい本当に体感では流行っていたかも。

 情報が欲しいけどネット検索くらいで済ませるの、雑誌などの有料メディアも展開して、皆でお金を賭けてでもダイヤグラムを割り出したり公平や平等を目指すのではなく「青リロくらいが面白かったよねー」となるのはひとえにGGXXファンの皆様のお陰だと遅ればせながら謝辞を送りたいと思います。

 まあでもネットの言論はネットの起こりがユーザー参加メディアなわけで、雑誌社でもメーカーとのつながりを持っ情報開示や逆アセンブルを通した「遊んでるだけじゃ分からない」情報の提供とかあったわけで、多くの人がある程度はやるけど、ビデオ見る方がラクって風潮になって闘劇のDVDも売れてダイヤが参加者のほぼ独断。

 でもそれって、餓狼スペシャルくらいでも雑誌各社でダイヤグラムなる物を作ったのがゲーメスト誌だけであって、もうずいぶん経ってるけど情報が無いってのはネットに過去ログが残滓としてあるだけで、興味関心は無くなって行ってるのかもなと。

 メーカー情報ではGGSTは100万本らしいのでそのお祝いを末筆に添えて。

議論の前に平等と公平の確認をしておこう

 以前にSNSで議論がなされた時に平等と公平の違いについて、野球をフェンスの外から覗こうとした外野の背の高さと踏み台の高さで図にしたものが流れてきた。

 俺の落書きで申し訳ないがこんな感じだ。

 誰しも踏み台の高さが同じなのが平等で

 頭の高さ(目線の高さ)が同じになる踏み台の高さが公平だ

 まあ背の高さ(目線の高さ)は野球を観客席のさらに外から見るためという条件があって、それに必要十分と言う所から踏み台の高さはそれ以上必要ないし、足りない人には上げてあげるべきみたいな論理が成り立つんだけど、これを安直にお金の分配として現資金と給与の関係などを調整しろというのは、何かが違う気はする。

 その昔に一緒にメシを食った友達の彼女が「ケーキを五等分するアプリを作りたい」って言って皆が「ハァ?」という中、俺が「ビールの企業間シェアみたいなのをプログラムで五等分できないかって事だろ?」というと頷いて、しかしその後に俺が「それはアプリなんかじゃ無理無理!」と言ってすごくガッカリさせたことはあるんだけど、俺がプログラマーでそんなアプリは無理と言ったのが独断だったと振り返る。

 そんでそこらへんの議論と言うと毎日のように国会でされている与野党協議をすっぽかして民間でアプリで出来たら苦労はないと思うんだけど、毎日国会見てるともうアイツら放っておいて民間で先にアプリで詰めた方が速いんちゃうかという友達の彼女案も捨てたものではないというか、それに先んじて平等と公平の定義はしておこうと。

 まあ英語で言うとイコーリティ(イコール、等しい、ね)とフェア(審判や警察)だと思うのよね。マルクス主義に傾倒している人も、やろうとしている事がイコーリティじゃないかという気はするね。フェア。何から始めたら良いだろうね。

 マルクス主義も机上の論理から出発していて、資本が工場で工業生産と労働制手工業などで生産性を比べて工場が連合で同一賃金同一労働なのは分かるんだけど、農業とかもロシアはソルホースだったけか、国営で平等分配を考えた。日当たりや農地の広さとか色々あるじゃん。けど全部が小麦ってわけでもないし、種まいてお日さん当たったら植物が伸びてくんのを工場で人が手でモノ作るのとどういう軸で平等に分けんのって言ったら、そりゃ工場は人数分か世帯分、農場は全員分、押しなべて平たくするしか考えようが無いのも分かる。

 そういうことを脇にどけてお金の話にするのも飛躍だし、議論は進まない平行線になるのも軸がハッキリしていないからだともいえると思うのよね。

 このへんイギリスはポンドヤードで厳密にケチケチしているけど、ロシアはそんなことくらい目をつむれで細かいこと抜きで平たくしていると想像しています。

 最初に言ったように公平で台の高さが変わるのは「野球を見るため」という共通の目的を背の高さで叶う人とそうでない人に分かれるから、目で見て測れる身長と台の高さを合わせたという話。俺はその意味で体がデカくて平等だと食い足りないと感じるタイプ。弟はそのぶん痩せてんだけど、俺はおやつで補うし、姉なんかは食ってウーロン茶で痩せようとするタイプだった。

 余談になるけど俺もウーロン茶試すと、スーパーの買い物を見て「食う量減らせ」という圧は周囲から感じている。

 ただまあドラクエⅤあたりで「学者さんも頭を使ってお腹が減るのか良く食べるのよね」みたいなセリフがあって、戦争中に餓死しないコツは何も考えようとせず無の精神で次の助けを待つことだったようなことも併せて考えると、ケーキを五等分するアプリにも開発費用は掛かり、そのオーバーヘッドがあまりに大きいと共産圏で政治家だけが大儲けみたいにコンピュータ技師を全面的に信用してくれるのかみたいな問題は出てくると思うし、等分を求めたり管理したりすることにタダ飯食うのはどこまで許されるかと。

 簡単な話、誰のケータイにでも付いている電卓アプリで小数点以下を気にしなければあとはグラム秤くらいでケーキは五等分出来るんじゃね?とは今更に返したい解答だ。

 それでもやりたい議論があれば、国会でもSNSでも毎日どこかでは白熱していて、しかしどこかではシラケて見守っているか無視されている。そんな話でした。


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