確率麻雀からの脱却

 久しぶりに、麻雀の事を考えていた。

 はじめは河を見た打ち筋の研究をもっと掘り下げようとしたが、そもそも何故コンピュータ麻雀くらいしか普段打たないのにそこまで掘り下げようとするのかという点から考え直す。

 正しく考えられるようになる前に高校くらいでヤクザ屋さんと打って借金作ったのがトラウマになってて、それから怖いと思って「打つまい」とすくんでしまうと自分に弱みが出来ると思って、いつか克服したいというようなことで研究してきた。

 自分なりに納得して組み上げた理論があって、負けたときにそれを疑わず、ちょっと頑固でいたことが間違いのもとで、負けたら勝った相手のすることを真似てみるくらいの事を繰り返して場数を踏むと自然に見えてくるものが持論のせいで閉じていた感じ。

 初心者で狙いが分かりやすく上級者から鴨られやすい人だった。賭博場でその道の人を相手取るにはもうちょっと強くならないとと思う。

 けど、そこまでして麻雀は本当にフェアなスポーツみたいな競技なのかと言うとカネのためのインチキも否定はしきれないってのが賭け事とか賞金大会とかに付いて回る疑惑で、払拭できない以上は夢中には成れないだろうなと(そう言うて夢中でやっとるがな、というツッコミは可)

 まあ、今までの俺はこういう手はあまり上がってないかなと思うようなアガリ

 その結果というか過程のひとつが確率麻雀なわけで、上がりやすいツモピンフを狙うのが基礎ということを麻雀の本で学んだ。しかしツモピンフは20譜2翻と点が低く、確率的に成立しやすいメンタンピンやツモピンフが得点を加味した期待値としてそれでも強いかと言うと初心者の「上がると嬉しい」の範疇だ。

 それをさらにもうちょっと踏み込んで、上がれるうえに高目を狙うと多分普通の強さなんだろうと思う。ただ、カネを持っている時は狙われて、反対に雀荘に入って人が言われた通り払うのかと考えたら、持っていない相手の取り立て屋になって追いかけるのも馬鹿々々しい。

 余談になるがMTGなんかは景品ゲッターになると店が全部近所から逃げたわけで、出玉で稼げるようになったパチンコ店も1店閉店になったわけで、賭博店を追って移動するとなると時間や交通費がかかる。

 俺が何故麻雀を研究するようになったかは冒頭でも述べたようにヤクザ屋さんとの対局で借金を作ったトラウマがあるのだが、しかし有名私学に通う学ランが何故賭けマージャンに誘いこまれのかというと、ゲーセン通いの上に100円闇賭博であるストリートファイターでお寺の人を知らない間に負かして100円を取っていたというのはあるようだ。罪状を述べて裁判するのが現代社会の法律の当然のカタチだと思い込んでいた俺には当時は理解できなかったが、法治国家でもヤクザが跋扈するのは言葉を持たない人がまだまだ世の中にいて、それを寺が私罰でもって解決しようとするからだろう。法的には私罰でも宗教家にとっては天罰、警察もヤクザが銃を持っていたらそれなりに強くないといけないし、伝統的な宗教の天罰は警察も恐れを抱く不思議で謎に満ちたトリックなのだ。

 俺にまだ麻雀のトラウマが残っているのhもう治らない。格闘ゲームに関しては岡山のお寺に呼んでもらって宗教的に書いて良いのか分からないようなご馳走をいただき、鐘を突いてテレビ取材まで来たがお寺が「テレビに出たかったんでしょ?」と言って岡山局のゆく年くる年に出たからと言って俺の本願は叶わなかった。

 俺は俺で、お寺業界全般を敵に回したつもりもなく、お寺にも宗派があって敵味方があり、最初に麻雀で罰しようとした坊主だけを何とか狙って罰したいと思うのだが、それも俺の私刑となってしまう。麻雀の仕返しは麻雀で。格闘ゲームの仕返しが麻雀だったことがそもそも不服だったわけで。

 俺が宮だと言っても奈良は仏教文化が根強く聖徳太子の時代から仏教であったという教育が敷かれていて、実際お寺も多く、貴族由来の荘園政治が現代風に言うと大家さんビジネスであり、お寺も貸し墓ビジネスと檀家参りで生計を建てているところもある。そこに共産党が来て「働かざる者食うべからず」と言い出すと何から始めて良いのか分からないもみくちゃわやくちゃの口喧嘩なのである。

 まあその辺のことは小中学校でも分かる食料自給率を国別ではなく県別でみると米どころの秋田が200%くらいあって、自給率18%の奈良のスーパーでも「あきたこまち」が5キロ2000円くらいで売られていて檀家参りが3万円というのと比べると袈裟を着てスクーターに乗ってお経上げたら米75キロという風に交換成立して、そうするとシステムエンジニア月給30万円って何がどうなっているのかって話にもなる。

 システムエンジニアをしていた時にも給料日に賭けマージャンに誘われたが、この話も何度か書いているけど全自動卓で四暗刻を食らう所からメンタンピンでリーチを繰り返して、アガリこそ少なかったものの徹夜麻雀で取られた額は14000円。俺はそれでも負けたと悔しいが、財布から1万円払って、翌日に銀行に行って4000円も返すと、それからは人に麻雀に誘われることもなくなってはいる。

 理屈で言うと、俺は麻雀の強さには頭打ちがあって、近くなると4人打ち25%の勝率でお金があっちに行ったりこっちに来たりで勝ち負けはほぼ無くなると考えている。

 だから強くなったら儲かるのは弱くてお金を持っている人を捕まえて鴨に出来た場合だけで、そういうことを悪さだとすると、悪さをしないで麻雀で儲かるなんてあり得ないと思う。

 まあ、損しないようにコンピュータで研究しようと3DSで打ったのは総局1376局でこれむしろ対人でやってたら賭けマージャンは違法なのを置いておくと儲かってるんちゃうかと思うくらいなのだが、まあコンピュータがお接待なのだと思っておく。

 博打を打ってはいけないのはまず違法だからというのと、負けて身を滅ぼすというのは考えられるが、肉を食ってはいけない仏教のお寺の人が実は肉を食っていて、博打がいけないという寺の中で麻雀を打ってりうという事案もあることから、楽しいからしてはいけないと言われてこっそりやるのが答えなのかなって成人くらいでそう考えるのが普通かもだけど、俺はそのロジックを全て読み解くのに46歳までかかりましたよと。

 坊主が信者に守らせた戒律を裏切る一方で、裁判官や検察や弁護士はどうなのかと言うとそれが堅物だったらそれは坊主の良くある姿とは対極的で、生き辛いとは思う。

 律法で人を罰するものは必ず律法で罰せられる。これも聖書の言葉のひとつだ。

 貴族とお寺と共産党でもみくちゃなのに聖書まで参戦するのかと言うともうね。

取り留めも無い話と気を逸らすためのMTG

 高校まで進んでから文理の別を考えるとき俺は文系寄りだったが親父の言で理系選択、結果破れてフリーターしてから専門学校に進む。コンピュータの専門学校を出てソフトウェアと言うと理系と考えられていた時代に森博嗣の理系ミステリを読んで理系力を高めたが、ゲームに没頭していたのがカプエス2の公式全国終了でその時に最後の2D格闘の大会と言われ、一回終わって落ち着いて、仕事が選べないのを勉強が足りないからだと解釈して本を読んでいた。

 だからまあ、文理の別というと工業過程専門士であって文系でも理系でも無いわけだが、周囲が理系人ばかりで影響は色濃かった。ただ、最初に書いたように俺は高校で受験の時に文系を選択しようと思うような生徒で、プログラミングも数理ではなくアルゴリズムやデータ構造を付けられた名前で文意で理解して書き進めるタイプだった。だから今でいうタイプスクリプトの文字解析系のが性に合っていたかもだ。コンパイラとか。

 だけどいつからか専門用語に侵されて、誰とも話が通じなくなり、病気に倒れた。

 かれこれ15年、服薬以外に続けたことと言うと、お世辞もあるとは思うが高校くらいまでは天才的と呼ばれた俺が眠くなる薬を飲んだ状態で頭が鈍くなった時にただの病人として出来ることのひとつに誰でも愚直にやれば成果が出ると言われた大嫌いな受験勉強だった。

 それでまあ、今でも服薬は続けているが、自分で言うのも何だけど頭は良くなったと思う。そして理系が全て理学かと言うと、理を全て数学にするならまだしも、理にも国語や外国語の要素はあり、理を文意でもって理解するというプロセスが誰しもあるだろう。化学でも気体ひとつ取って気と体を漢文解釈しているわけだし、物理学の重力だって重と力を漢文解釈している。医学書はその意味で横文字だらけで未翻訳の単語も多く、独習が難しいとされる。

 それでも理系が賢いのは、文系科目に対しても語学などは小中高を通した受験勉強で充分な基礎理解があり、しかしそれを忘れて文系批判をすることもあるのだが、言葉の所以とそれが文字で扱われていることも併せると、文系はそれはそれで無くてはならないと俺は考えるようになった。

 その中で、俺がMTGを始めた時は英語版だったが、ある日から日本語版ばかり買うようになり、先日は曜日の月曜日を思う時にB’zの「今夜月の見える丘に」を脳内BGMに闇夜を照らす煌々とした月を思い浮かべて「ああ月曜日だ」と思う代わりに「ムーン!」という単語がよぎった。

 続けてファイヤーと燃え盛る炎にウォーターで流れる青い川、どちらかと言うと森のイメージだったがウッド、そして金のきらめき、手掘りの土にまぶしい太陽を思い浮かべた。文字と体験が結びついたのだ。

 そうするとMTGのような遊びも無駄ではなく、俺の知性の一端を担っているよなと思うのです。Age13+のおもちゃを「子供のメンコか」とか「ビックリマンやろ?」という人もいるが、幼児の頃に親からの絵本の読み聞かせが無かったり足りなかったりした部分をいい年して遊んだトレカで幾分か補えたと思う。

 そこまでいって何だが、数理もそれはそれで出来上がって必要だとも思う。数で考える、長さや重さや量で考える。東洋医学の生薬と理系科目の有機化学とどう違うかと言うと有機物の定義は生きているものから出発しているので、薬効のあるなしを除けば有機物はつまりは生薬になるのだ。ただ、生きていると死んでいるに語源的には境い目が無く、同じように有機と無機に分けて考えられる化合物にも有機だけど生きているとは言い難い糖類があるわけだ。砂糖もトウキビから作られるなら生薬で有機物だけど、砂糖が生きていると考える奴はちょっとおかしいだろう。

 そんなわけで、こんな屁理屈をこねくり回しているのはそもそも懐かしくてポチリそうになったSFC版のスターフォックスをどう我慢するかという所からの話になる。メチャメチャ長くなるので、この話は割愛する。懐かしくて遊びたい以外に昔から持っていたものを失くした時に物証的に古物を揃えて偽証するか諦めるか、まあ探すという道も無いではないが、権力の象徴としての物証がある人からは憎らしく、当人としては頼もしいのだが、それは理学的にはどう解釈すれば解決してまた自分を納得させられるかというようなことでお金を使わない方法をずっと考えていたのだ。

 しかるのちにMTGで遊び、考え始める前には3DSで遊んだ。なんだよ遊んでんのかよ!遊んで物思いにふけってまた遊ぶ。今日はスーパーに昼飯買いに行ったくらい。

今日もスターフォックス64・3Dを遊ぶ!

 高いおもちゃが買えなくてもありもので我慢するというのは良くあるシチュエーションだが、近年では懐かしの古いものを大人買いしたくなる衝動を現行販売のおもちゃで我慢するという良く分からない「ねじれガマン」が随所で発生している。

 まあそんな「ねじれガマン」も欲求昇華が何を持ってもたらされるのかというところを自問自答して、普通に新しいおもちゃが欲しい時にお母さんからよく言われる定番の「どうせすぐ飽きるでしょ」で片付くわけだが、特にスーファミストIIターボを買う時には「絶対に飽きないもん!」と何年も頑張ったことはブログ読者の皆様ならご存じかもだが、そんなに長期にわたって読んでいるわけではない方に説明すると、色々買い替えても結局はスーファミストIIターボとソニックウイングスで良かった、翻って今更にでもそれを買いなおしてそこから貯金すればというわけで今は生活には困っていないし貯金もある。

 だが、その貯まったお金の使い道の筆頭が「ガマンしたゲームを買うこと」になりがちである。まあゲーセン行かないでお金貯めて新しいのを1本買うというのはある意味で健全ともいえる。しかし行かなくなったゲーセンこそが悪友から犯罪に誘われる温床であったとはいえ、人付き合いのない俺の対人コミュの場だったのだと振り返る。

 話し相手いないからこのブログ趣味が本格化したのかもしれない。

 ゲーセンゲームでは無いから他人のプレイを見たこともないスターフォックスなのだが、まあスーファミ版が恋しくても恋しさと切なさと心強さで乗り越えてすこしずつ分かってきた「戦うこと!」やっぱゲームはやってる時の没入感やね。

 もう、夢中で遊んで、引きの目で見て攻略するとかじゃなく、子供のように遊ぶ。

 これがプログラマーしたり、進化版の後に旧作やったりすると骨組みが見えることあんだけど、まあ新しのは肉付けがもっとされていて、新しい要素もあって、からかって遊ぶには手ごわい相手なのよ。このことも何度か書いてるかもだけど、今だからスーファミの良さが分かって、しかし反対に世にはスイッチが出ていて、3DSを存分遊んだかと言うと、ちょっと疲れるよねって言って麻雀ゲームとかで遊んでたんです。

 それを3DSのスターフォックス64もガッツリ遊ぶ。これだ!(どれだ?)

 けど遊んで疲れると仕事しないからダメさね。将棋コンのやねうらお師匠もお子さんがスイッチをねだった時に「そんなもん家にあったらお父さんゲームばっかりして仕事できなくなるわ!」と訳の分からない説教で買うのを辞めさせたとか何とか。

 そういや高校の同級生にも俺らが学校行ってる間に親が家でスーファミしてるとかそういう話の家もあって、木村の母ちゃん家に遊びに行った時デビルワールド50面まで進みながら振り返って「いらっしゃい」とか言ってたよな。

 木村の母ちゃんすげえな、と思ったものだが木村には「それ学校で言わんといてな」言われたのブログで世界に発信してやったわ!はっはっは!(うさばらし)


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