ゲーム研究は社会利得となったか

 コンピュータ将棋界においてBozanzaの保木先生は特別なわけだが、何故かと言うと強いとか弱いではなく国費として科学研究としてコンピュータで将棋の研究をすると言って、本当に電気通信大学で将棋の研究をなさっていて、だいたい400万円くらいのお金を使っているからだ。

 これはすごいことだ。ゲーム研究が社会利得となるか、という問いにはまず社会利得とは何かというところを定めないといけないが、その時点で非常に難しく社会とは何か考えたときに100人の村で99人が健康で生産性を持ちひとりが病気の時に病人が死んで99人になった方が豊かかもしれないという仮定が成り立つ。病人もいる100人の社会と、病人のいない99人の社会を総幸福量で比べると、ともすると金銭だけなら極論してひとりが皆殺ししてひとりで全部持つ方が財の量は多いかもしれない。だが病でも生きていて良い、看病をして生かしてもらえるということが無量の幸福なら、幸福度で言うとそれを99等分して分けた100人の社会の方が幸福かもしれない。

 そういうことに経済的な基準値をどうしても設けなくてはならない時に、保木先生は国に将棋の研究に400万円という具体的な価値があることを認めてもらったわけだ。

 まあ、そんなことをする前から棋界はある。世の人が政府など介入させずとも新聞社などを通して余興のひとつである将棋で遊ぶことやそれに強いことを一定の価値として認めていたという土台はあるだろう。それを遅まきに大学でも真理の探究の一端として将棋というゲームの成り行きを数式化しようという試みを始めたのはもしかすると暇なことの証明ではあるのかもだが、真の暇とは何か空白のようなものを想像するではなく、ゲームを研究できるだけ社会に余裕があるつまり研究が社会利得になるか社会の余裕が研究を仕事として認めるかみたいな後先の分からない話でもあるが、認められた。

 ただし、その研究成果というのは国民が皆理解して将棋の強さの底が上がるような竹を割ったような答えになっているわけではない。多岐に及ぶ将棋の指し手の良し悪しをはかって、計算機の方が将棋に強くなっても伝統としての棋界には機器類の持ち込みは禁止で、指し手の丸暗記をはかったとしてくまなく覚えた方が勝つとすると、研究に計算機を使ったものが恩恵にあずかったとして、将棋の研究が社会利得になるかという論点では400万円の価値が認められたわけだが、それ以上の賞金額がある伝統将棋と学術研究の関係性は別問題であって、学術研究で将棋の答えを出すことが棋界の存在意義をふたたび問い直すことになるのだが、両者はゆるい関係で、特段どちらかが排他的になるでなく社会に両立したままなのである。

 閑話休題、俺もゲームに関わる仕事がしたいと思った時にゲームソフトを作って売る以外に実費でゲームを買って遊ぶことももちろんしているわけだが、社会の役に立つという意味で「こんなゲームの攻略法が知りたい」というオファーを受けてブログで研究成果を発表していくような仕事ができたらなと思案して、実際幾つかのゲーム特に鉄拳5アーマードコアネクサスに遊戯王DSナイトメアトラパドールなど、アクセス統計値から「求められている」と思ったゲームを攻略して展開しているが、まだまだ。

 社会的意義を金銭価値とするなら、科研費ではなくブログの広告枠が売れた分だけスポンサー料が入ったその価値をブログの価値つまりゲーム攻略の価値として公益性があったとしてよいとは思う。しかし収益性という問題で行くと、その広告費での収益より俺が実費で出したゲーム機代や市販の攻略本なども含めると先行投資額の方が勝っていて、俺が健康な時に働いて得た給料で買ったものがあとあと少し役に立ったという寸法で、とするとゲームソフトや攻略本に資産価値が間違いなくあったという事で、民間企業がコンピュータゲームを制作販売してそれを国民が遊んでいる事には経済効果を含め資産価値まで考えると、これは疑いようもなく社会利得なのであろう。

 もちろん「何の役にも立たない子供のおもちゃ」というご批判が世にはあることも重々承知の上で「じゃあ何で売ってるの」「じゃあ何で買ってるの」となると、ゲームをしない親以上の世代の人には分からなくても、子供ってか46歳なんですけど、俺らから下の世代ではゲームって割と普通に共通の話題にも上がる普遍的な遊びで、それくらいの余裕は生活のどこかに持ちたいと思って日々の暮らしに馴染んだものかと。

 


🄫1999-2023 id:karmen