「ウソ」という言葉が嫌い

 漢字でいうと嘘「虚を口にする」ということ、英語でいうiie(ライ)とは果たして同じ意味だろうか。俺の学んだ学校では教科書やプリント中心で物事が進み、それ以前には積み木やおはじきで数える「数」と音楽や工作に美術で使う道具以外は全て文字が中心であった。

 昭和後期生まれだが、親はテレビのトリックを知りながら退屈だから見ていて、俺は茶の間でテレビを見て育った。映像になると、カメラの位置から見えているもの以外は見えない平面的なものなので「そういう風に見え聞こえすれば事足りる」ということで、テレビ局では家を半分に切ったようにカメラに映る側だけ工作して、その舞台上で役者が演技するというようなことが行なわれている。そういう映像作成の技法を知らないと、家の中が写っているように思うもの。

 さらにそれ以前にはラジオがあり、聴覚だけ騙せばよく、マイクの前で会話劇が行われ、その前には活字の時代があり、現代でも証書は法的な効力を保っている。ただ、法的な香料を持つ証書と違い、新聞や雑誌は刊行物で多くの人に広宣することが目的で、そこにはもしかしたら虚偽もあったろうが、テレビで見せると信じる人がいるように活字も信じる人のために印刷されている。

 ここで活字の文字や人の信ずる言葉というのは何かという問題になる。テレビのトリックで話したように、ホームドラマを部屋を半分に切ったようなセットで撮影した時に「家の中」という表現を使うとそれが嘘なのか。例えばショートケーキの断面でイチゴが入っているように見えて、切り取られた30度ほどにだけイチゴが入っていて他はスポンジケーキだったというような商品を作って売ったらそれは詐欺にならないか、みたいなことも考えた。

 俺はウソという言葉が嫌いだ。その対偶にある本当がとても一面的なモノの捉え方だからだ。実物提示をするならば言葉はいらない。伝えるために音声や文字を使うと、どうしても欠落する情報がある不可逆変換の伝言ゲームで、理解できないことは「分からない」と言うべきで、自分に分からないなら「信じられない」と言うべきで相手のことを「ウソ」と攻撃するには自分からはそう見えないという方面的な視点ではなく相手視点でもそうは見えていないということを立証する必要があると思う。

 そう考えると、俺が俺の見ている世界をこうして分筆で表現するのは旅に出て写真を撮ったりするのではなく、俺の部屋で起こったことを移動せずログにしてゆく行為なので、誰かが部屋の中に来ないととても片面的であるという矛盾を含むこととなる。

 立証とは、その意味で全て事後報告性を持ち、俺はたまに「将来こうなるのでは」という予測を立てることがあるのだが、予測を立てて外れたということと、事後報告的に見たこと聞いたことを捻じ曲げて意図的に人に違うように伝える、ということが俺の辞書での「ウソ」の意味なので、少なくとも俺の視点からはそう見えているということについて俺が正確に語ろうとしていることを「ウソ」と否定するならば、俺の視点で起こったことを出来るなら全て見せたい。

 ただ、俺の視点で見ていることで絵はなく、他の人から見た俺の挙動に問題があるなら、俺からそういう風に見えるように劇なり芝居なりで見せてもらったら分かりやすいが、そこを活字や話で上手く説明できる文章力や話術がみんなには備わっていないとなると、それはそういう話でウソとか本当とかそういう話ではないと思っている。


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