「百聞は一見に如かず」とは言うものの

 音楽雑誌というのは写真と活字と楽譜で出来ており、流行りの音楽の媒体の広告であり、反対に「百読は一聴に如かず」ということが結構ある人生だったと思います。

 まあ「ことわざ」というものが古いだけで、その比較には俺はコンピュータの情報量をよく使い、知の巨人梅棹忠雄が情報について「コンピュータで何バイトということはなく」と記していらっしゃったが、文系のレトリックが情報科学でぶった切られるとただのアスキー文字列ということで、文字列は文字列としての情報価値を認めたとして、写真や音声の情報量がデジタルで何バイトと厳格に定義され始めた時代に物書きとして胡散臭く晩年を迎えられた梅棹先生の本を二十代くらいに読んで、有り体に言ってタイムトリップして過去に行って騙されて現代に戻ったような感覚だったのです。

 だいたい、このブログ全部でも活字にすると50MBくらいかな、いちどと言わず何回かローカル保存や全削除を考えたのですが、それよりケータイで自撮りを回してギターの弾き語りを1~2分撮ったら、それだけで150MBを超えてしまって、活字を読んで人となりを想像するのではなく動画で見たら「ああ、こういう人なんや」という実像が明確になったと思うんです。まあ人によって想像通りとか、違うとか、ダメな意味でガッカリだったとか、案外足が長かったとか、色々あるかとは思うんですけどね。

 それに対して、まず芸人としてデビューしてから本を書いてテレビから引くというほうがイメージコントロールとしては上手いのだろうと思うんですよね。プロが脇を締めている芸能人にトーシローがパソコン1台で勝負に出て勝てるのかというと俺の感覚では負けなんですが、向こうは向こうで情報産業として一矢報いられたと思っているようで。

 まあでもそういう風に、かくれんぼというか自画像を売り物にせず、想像を掻き立てるのが文筆の面白さであって、ノンフィクションとかファクトに拘って創作に対して騙されたというのはまだウェブとかSNSにニュースなのか投稿小説なのかハッキリしない情報源としてのブログという場があり、その活用方法が人それぞれで現在進行形で対決中なわけです。

 書いたものはパクられるわけで「ギターが弾ける」などと書くよりは「コードを抑えてビックでがむしゃらにかき鳴らす」とか書けばそれっぽいわけですが、コードとかピックってお前どこで覚えてんというと俺がブログで書いたら読んだやつが覚えてそれで読んだやつの方が言葉としてそれを使ってカッコつけて俺の方はギターの自撮りアップして低評価を付けられるみたいな運命のもつれというかね、その根底には俺がズルくないかというと、ズルいところもあるけど文筆に於いてなるたけ自分の事を理解してほしいと思って正直に書いているところがあって、ウソ書いてカッコつけてもはがれるとそこには裸の俺がいることを俺がいちばん良く分かってんだけど、最後まで自分を隠し通すつもりなら文壇ではカッコいい方が良いのかなってのも最近分かって来て。

 最近は物書きに対して憧れは抱いて居るところが少なく、ムカつくなどんな奴なんだって思う時もあって、まあ翻って俺の文筆の今迄に対してもホントにゲームとか強いのかとかギター弾けんのかとか資格持ってんのかとか疑いとキライの目でもって読んで、実物見つけたらスコボコにしてやろうと思って接してきている人と至近距離で何度も対峙したわけです。結局は最後に手を出したのは俺の方だったんですが、相手は相手で恐らく前科があって、更生の過程で身に付けた常識でもってネット上の俺を追い詰めて来ていたんだと思うんです。

 俺は俺で開き直ったところがあって、赤裸々に書いてんだよと思うわけですが、ギターの練習とかはその素の自分を頑張ってカッコつけようと思ってしている事なんですが、舞台とか映像の世界では衣装にライティングとかでカッコよく見せて音声は別撮りとかが常識らしく、スマホの自撮りを世界に発表してもそれで俺のことが周知できるなんてことは無く、一部の人だけ見てくれて、後の大半は想像にお任せするわけです。

 ブログ全部読めとか過去動画も全部観ろとか言ったとして相手にそうさせる権限は無いし、なにより人のイメージというのはその人本人の想像の世界で自由の象徴であるわけですから、不可侵なものであってそうあるべきで、そして俺の自撮りとか文筆が誰かの想像の世界を傷つけるものだとしたら、それ相応に反撃もまたあるのかなと。

 まあ今日の話はそこまでです。昼はマクドのダブチの予定です。


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