「神童も二十歳過ぎればただの人」そう言われても仕方のない20代だった。
気づけば普通のサラリーマンになっていた。隠し事は山ほどあった。
病気になって実家に帰ったら弟が引きこもりになって親父ひとりで育てていた。飯を3階の部屋まで届けるのが俺の仕事になったが、それまでどうしていたのかと観察していると、親父が寝室に行く時に居間に小遣いを置いておいて、夜中に起き出してHDDレコーダでアニメや特撮を見てコンビニでカステラとかカップ麺を買ってそれで何とかなっているようだった。
カステラは卵が入っているので、多分それで栄養が足りているのだろうという話から、親父が卵を買ってきて冷蔵庫に入れておき、5個ずつゆで卵にして台所に置いていくようになった。カップ麺はスーパーで適当に買って、袋に入れて台所に釣ってあった。どん兵衛のきつねとスーパーカップの豚骨がいつもなくなり、残りを俺と親父で食べてまた買っておく。
そんな弟だが、上京すると言いだして親父がマンションを1室借りてあげることとなった。俺は自分で大阪に部屋を借りて苦労したと思っていたので「弟だけ甘やかしすぎだ」と言った。親父は「じゃあお前も好きにしろ」とだけ言った。弟はは何も言わなかった。
ある日、俺の部屋の前に1冊の本が置かれていた。
「ロックギターが弾ける本」
おそらく弟が物置を物色して俺のおもちゃで遊ぶ時に見つけたものだろう。親父ではなく弟がそこに置いたんだと思う。赤い表紙の薄い冊子にはGLAYのBELOVEDの楽譜とチョーキングなどのちょっとしたロックフレーズのテクニック集が載っている。俺が昔に買ったものだ。
親父に「お前も好きにしろ」と言われてもテレビゲームくらいしかしなかった俺だが、そういえばギターを弾くのは夢のひとつではある。32歳でギターを買った。
家に光ファイバを引いてもらい、ネットゲームに明け暮れていた俺はギターを買うならアーティストっぽくパソコンもマックにしなきゃと心斎橋のアップルストアでマックブックプロを買った。サラリーマン時代の貯金はそれで使い果たし、家にやってきたマックを立ち上げた。
家に届いたマックを立ち上げると、ウェブカメラが内蔵されていた。ウェブカメラとは何かというと今でいうスマホの自撮りカメラ。ズーム会議で使うアレである。早速それで自撮りを回してギターをジャーンとやって撮ってみたものをユーチューブにアップした。
神童も二十歳過ぎればただの人。しばらくただの人だった俺だが、32歳でまたしても天才だと言われるようになった。本当に楽器経験が32歳まで小学校のピアニカくらいだった俺がビデオ通話を通して世界中のギタリストに囲まれて、1ヶ月くらいで弾き語りするようになったからだ。まあ、豚もおだてりゃ木に登る、褒め殺しというやつだとは思うけど。
そんな自惚れ屋の俺だが、当時の俺の何が天才だったか10年以上経って音楽経験が増えて分かるようになった。ドラムがあって、リズムがあって、ベースがあって、グルーヴになって、そこにギターがあってメロディが乗って歌手が真ん中で引き立つ。このバンド構成が絶対だと思われていたのをエレキギター1本でベースとドラムを省いて成立したからだ。
手なりだけで聴き込んで覚えたレコードの色々な音をギターしか弾けないで真似ようとした結果、リズムギターのジャンジャンジャカジャカというストロークではなく、ピックで6限だけ弾いてリズムを作り、ビンビンジャカジャカにして、ジャーンと鳴るコードストロークをブリッジミュートを右手の付け根で利かせて「ジャッ」で止めたり、自分が気持ち良く乗れるように手なりだけでグルーヴが出来ていたのだ。
それでも今改めて「神童も二十歳過ぎればただの人」と同じことが32歳からのこの11年で起こったなと思っている。ミュートを交えた奏法も左手奏法で出来るし、マックブックの内側カメラも誰のスマホにでも付いているし、1ヶ月くらいで結構弾ける人なんてのも何十億人がケータイを持つ今の世の中では探すまでもなくグーグルが見つけてくれる。
その中で、今俺はバンドをやるにはやっぱりベースとドラムは必要だという既成概念を正論だと認めるようになった中で「それは当たり前だけど君のすごかったところはそれらを省いてギター1本に全てを載せようとしたところじゃないか」という指摘も。
ギター3本で完コピするアニソンとか、幾多りらちゃんが生ギターとカホンだけで歌うとか、そういう昨今の歌ってみた弾いてみたのギターテクの中にやりだした頃の自分の何かが残っているように感じた。まあ、俺がやる前から奏法としても音楽としても無かったわけではないとは思う。
荒削りな中に新しさや才能を見出す人がいて、それらが洗練されて技法とか作品になる頃には既に奏者も変わっている。時代の流れというか、成長と衰退を繰り返す人の移ろいの中で見る人が見たら残っているように見える何か。
技は継がれて俺は消えるのだなと何となく思った。消えないで頑張り続けられることが神童が天才として大成するか普通の人になるかの分かれ目なんだろうな。月並みだけど。
ただ、今の俺の着眼点はギター1本の奏法ではなく自分が勝手に省いてしまったドラムやベースの本当の役割は何であったかみたいなとこなんだよな。必要だからその楽器が作られたわけで、滑走路があって飛行機が飛んだら車輪が引っ込むように現代音楽としてギター1本てのも有り得るけど、歴史としてはバンドサウンドがあって名曲だから点や線だけでも面に聞こえるだけなんじゃないって言われる。
それは果たして耳に残っているものなのか、遺伝子レベルで残っているものなのかというと、黒人の打楽器の音が眠れる太古の記憶を呼び戻して人を踊らせるみたいな効果があるのかもだろう。それをギター1本で本当にできたらもっとすごいかもね。
そこまで含めて上の世代の方から「省いたところが君の凄いところ」と褒めてもらえたのは、自信を持つに至るに充分な言葉だし、今後の目標を決めるための羅針盤でもあるよな。