テレビの見過ぎか推理小説の読み過ぎだな

まあ、他に思い当たるのはファミコンのやり過ぎもあるけど。

文筆家の先生でも特に俺が好んで読んだものには「小説を読まない」ことを自著で語っている作家が多い。

今俺は子供の頃に読んだ江戸川乱歩の「怪人二十面相」を読んでいるが、その中で「怪盗の巣くつ」の一節に疑問を持ち始める。

「雑木林の中の一軒家に車が入っていく描写は誰の視点なのか」ということ。車に乗っている登場人物の車窓からの視点のように始まりながら、全部の人物が一望できるような引いた視線からの風景描写が入るので「そこには誰もいないはず」ということを考えて「ああ、これは創作の落ち度ではないか」という風な興ざめ感がふっと沸き起こる。

ただ、それは「読み進めるのが煩わしい」という理由からくる難癖なので、そこは小説だしと割り切ってもう一度読み始めるとまあ面白く読むことも出来る。しらけたり、はまったりしながら活字を追っていく中で、江戸川乱歩の時代にはテレビが普及し始めていて、豪邸に住んでテレビも持っている作家がカメラの視点で作劇しているのだろうなと思った。

そう考えると怪人は既に盗むまでもなく機械仕掛けの豪邸に住んでいるわけで、そのカネをどうしたという設定はなく、愉快犯的に古美術を狙っている。つまり活字であることが高尚さを保っているのは大人が活字を読まずにテレビを見ていてお兄ちゃんが勉強部屋で読むのに面白い本なのではあるが、設定の有り得なさはドラえもんや鉄人28号とそう変わらないと思う。

もちろん、そのすべてが現実だとすると破綻すると思って読むわけでもない。作中の種や仕掛けが「科学的にも出来そうである」と思うから、いたずら心をくすぐられて楽しいのだろう。

ただ、俺がこう書けるのは学校を卒業して半ばニートのようで有りながらも社会人だからだ。同じことを子供の時に考えられたとしても読書感想文にそんなことを書いたら「先生に怒られそう」と竦むだろう。もちろん他の江戸川乱歩ファンが読んだら怒りを買うとか、怖いものがないわけでもないが、ややもすると無謀さとも言えるが、持論を展開する上で対抗勢力を恐れずにすむだけの実力を備えているから言えるのだ。

それがもしどこかの編集部に持ち込む原稿なら、やはり感想文を書く子供が先生の顔色を伺うように、出版社や読者に社会情勢などにも気を使って筆圧を弱めることになるだろう。


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