五分五分の対戦は一見するとフェアだが

 本当というのは嘘の対義語としてのみ初めて存在すると俺は考える。

 そこに格差があった時に、公平は理想として唱えられるが、結局俺の人生を振り返ると不平を述べる周囲の人間に富をだまし取られて貧しい青年時代を過ごすことになった。

 コンピューターゲームで遊ぶという恐ろしくカネのかかった公家の娯楽だった。

 しかし高度成長期でお金のある時代、その娯楽は大衆化してどの家にもファミコンはあった。もちろん、その成長の波に乗れず貧しい家庭もあったかもだが、マスコミは高度成長を喜び煽り宣伝を売って商品をどんどん流通させて貧しい人は社会のスキマだった。

 貧しい人でも、コンピュータゲームで遊ぶ時代だった。なけなしの100円玉を握りしめてゲームセンターにそっと入って遊んでいたのだ。上手なお金持ちのプレイを後ろで盗み見て、同じように遊べば同じように勝てる。見よう見真似の通じるゲームでは貧しい子供が遊びに来て100円を入れて最後まで勝つという景色も、また店番としてどの店にも見られる光景だったと思う。100円すらない子供だってもちろん居ただろうが。

 そんな子供の遊びを、俺はカネがあるのに勝ちに飢えて潰してしまった。人が100円入れて遊んでいる台の反対側の台に100円を入れると、通信で互いの画面に相手のキャラが映って操作しあって勝った方が生きのこる。その勝ちに味を占めてしまった。

 そこに貧しいものの訴えることは不平であった。せめてゲームの勝敗を五分にしろというのだ。俺はそれは公平だと思って飲んで、そうすることで世は良くなると思った。

 しかし、大前提として台に互いに100円を投じて五分の対戦をしたとして、僅かな小銭に当時は思われたが、店が200円ずつ儲かるのだ。近年ではゲーセン不況がささやかれるが、ゲーム台という高価な遊戯機で遊び場所の無い人に椅子を貸して商売をしている業界なので、高度成長と比較して不況はまるで衰退のバロメータであるように思われるが、世の中の富が公平分配に近づいた時に家にゲーム機がある子供が増えて、台と不動産を独占的に管理して取り上げ一方向のゲームセンターが不況になるのは社会善だ。

 たかが100円、されど100円。高度成長期には100円で買えるものなど近所の街中には何ひとつとして無かった。

 それが今はダイソーだってあるし、バナナも3本で98円だ。もやしも買える。アンパンだって帰る。いやもやしとアンパンとバナナは高度成長期からそんな値段だったかもだが、俺の生活範囲も変わったのだろう。デパートでシュークリームがひとつ100円だったのはよく覚えている。ビックリマンチョコが25円だったかな。

 そんなこと、細かいお金の話ばかりせせこましいと思われるかもだが、俺がそうなったのは真の公平を考えたときにそれはゲームのキャラクターの歩合ではなく、社会をもう少し広く取って日本国民の公平であるべきという政治思想を持ち始めたからだ。宮家の王子が共産シンパという簡単な話なのかもしれない。日本共産党ではなく、ロシアのような国を目指す。そうなったら、100円はすなわち100億円であり、政治家の汚職が5億円でも国民ひとり5円でしかない。もちろん、俺の小遣いとか資産も好き放題できる額や裁量があるわけでもない。

 もちろん、公平の軸を日本国民ではなくグローバルに取る人もいて、そうなるとロシアは独占的で途上国支援をすべきであるというような国際連合のような考え方になる。

 だが、俺は世界とか日本以前に俺の住む奈良県大和郡山市くらいの公平から、ゲームセンターの外の世界として始めるにはそれでも大きすぎる。ウチの親父はその意味では三兄弟(姉俺弟)くらいの公平を考えたようだが、俺はそれにも幾つも不平があった。

 バカみたいな話と思われるかもだが、公平にも軸がいるという事を書きたかった。

 まああと、大国ロシアと島国日本じゃ目指すと言っても同じにゃならんでしょうということで、明治以降の日本は同じく島国である欧州の英国を目指したのだろうとは思う。これも当たり前だが、知らない人もおられるといけないので。

 その意味で、公平というのは本当に存在する国もあるのかもだが、日本で言われる場合は蘭学を学んで覚えた言葉でその場の損得をなくす二者間の取引を第三者的に語る言葉であったのだろうと思われる。だから最初に言ったようにゲーム台の勝ち負けが公平であればそれで不服は無く、そして静かに店が200円を儲けていたのだろう。


🄫1999-2023 id:karmen