それでも何かの糧にはなっている本棚の本

 先の記事で「経済学は空論」と書いたが、多くの近代の学問の基礎足り得る統計学もその基礎理論からして空論であることに統計学を学びながら気付くのである。申し訳程度に、もっと良い数学があることは示唆されているのを注意深く読むと見つけたのだが、筆者のせいなのか、説明を受ける読者の数学力を推し量ってか回帰分析に一次式が利用されている。

 まあ例えば日経平均株価はバブルの頃高く、リーマンショックで下がり、昨今のアベノミクス以来また上がっているうぇあけで、大きな波を打っているわけだが、過去には一次式での直線的上昇もしくは二次式を使った倍々のインフレなどが予見されたわけである。しかし上がって下がって上がったとなると投げた石が放物線を描くように、波の方程式であるサインカーブに軌道が乗るかというと、そう単純でも無いだろう。物理学が方程式に則るように社会学の先生も数字を出して方程式を出して何らかの持論を数学的証明であるとして論を括ったわけではあるが、今考えるとそれで騙されるほど習い手に学が無かったわけである。

 それで騙されてきたことが分かっても、その経験を真理の探究のひとつの寄り道であったとしてまだ真理を求めるか、今まで騙されたわけで同じ教えで若い者や莫迦なものを騙そうとするかというような行動の選択肢が広がってくるわけである。

 そうすると、今まで読んで読まなくなった本棚の本でも、自分でも1回はお金を出して買って読んで、それでひとまとまりの考え方足り得たわけで、古本屋に売ったら幾許かのお金になるかもしれず、またさらにもっと古い過去に一読しただけで古本屋に出したり友人に渡したものが思いもかけぬ高値がついて失敗だと思ったこともあるのであるが、値段に騙されて「損をした」と思うのは相場違いであって、何の役にも立たなさそうな本に高い値が付くことで自分なりに役に立つ立たないの物差しがある場合に、その相場は売買によるお金儲けの成り立つ市場になるわけである。

 高くなるかもだからと置いていた本も貯まってくると部屋の空間の邪魔ではある。ただ、それらの本は少なくとも自分が1回は読んで考え方の基盤を作ってくれている。その基盤となる考え方は、やはり空論として経済学や統計学のように根本から誤った考えであるのかもしれない。じゃあどうして騙されたかというと、バカだったからだろうか?そこは素直に認めて読み直すと、本というものが如何様に人を騙すのかまた別の読み方でもういちど読めるものであったりする。そうすると値が付くのも分かる。

 思えば幼いころから多くの本を読んだが、遠く思いを馳せないと分からない事よりも目の前の玩具で実験できるファミコンミニ四駆の本に夢中になったものである。その慣れの果てがデジタルの中に世界を見出すゲーマー、ゲームプログラマーだろう。そこから高校まで巻き戻り、勉強をしながら自分の半端な学歴で人を威圧するためにはより学歴の高いものの権威は認めないといけないという学歴封建社会のような自戒の檻の中で生きてきた何年間かが俺にはある。だがそれは始めから、何かが正しいか間違っているかひとつの物事に対して向き合うのではなく、広く多くの学問を学んで〇×で総合点を競うという馬鹿げた点レースの結果であって、評点が同じだからと英単語ひとつ、漢字一文字と数学の一問はルール上等価で測られるわけだが、そこで文系が多元的な数学を置いておいて英単語や文法や漢字にとりつかれたばかりに最初の方に書いたように一次式の数学を基礎とした空論の学問分野に入ってモノの考えを推し進めてしまったからだろう。

 かといって、高次式の数学や難解な物理方程式が分かるようになると、それは自分にとっては難解ではなくスッキリするわけだが求まるのが軌道か速度か体積かとスカラにならないと分からないように、例えば「運動を系として理解する」というようなことが分からないと「数字を出せ」とか「幾らになるんだ」という売買の成立はしづらい。

 物理学はスポーツか工業か戦争くらいにしか役に立たないかもなぁ、とも思う。しかしまあ、スポーツをデジタルの中で体験するeスポーツ的には物理学や数学は非常に役立っているので、戦争の役にしか立たないという前提を持つ人に平和的な使い方であるとしてゲーム研究を売ってきたのである。そのゲーム自体がデジタル分野での馬鹿げた代理戦争であることは隠してきたわけだ。

 ゲームをしてゲーム機を買って遊んでゲームの攻略本にしている間は少なくとも対外的な損失は与えていないというのが俺の言い訳だったはずだ。

 だから、これらの俺の本棚のバカ本を役に立たないと捨てるわけにはいかない。

 ゲーム理論、今後ももう一冊になるくらい書き続けるのも悪くないなと思う。


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