多くの意見は擦り合わされてひとつの結論になった

 現役だった頃は議論はあったけど、議論がかみ合わないままそれぞれほとんど同じデッキになったのは俺が組んで持って行ったのを皆が「それいいね」と言って真似て揃えて、その中で究極を理屈で求めたかったけど、皆口々に違うことになって、トーナメントの結果でってことになって、自己最高が1000人トーナメントの13位から棄権者多数で繰り上がりベスト8になって予選突破とかだったのよね。まあそれで良かったのよ。

 プロツアーマインツの日の朝は隠しておいたデッキで出て、英語版を日本に輸入する仕事をしていた末吉さんに「見せて!」と言われてちょっと見せると「おお!尖ったね!みんな今日はきっとミヤッピが勝つよ!」って宣伝までされたの思い出した。見る人が見たら分かることを敢えて隠して商売として売っているものがあるってことだとは今になって思うんですよね。

 緑五色5CGって「マロー」の制圧力が大きく報じられた印象あるけど、今思うと緑の小型クリーチャー高速召喚に魔力消沈なり否定の秘儀(かな?Arcane Denialアーケンって呼んでたカウンター呪文)それに1枚のハルマゲドンで勝つデッキだと思うのよね。元々赤緑の土地壊しデッキとユーロプレイヤーのエルフアーチャー系ウィニーアーケンと火葬入れたオサレデッキが融合して、どれもカンポス全盛期にお金のない人の趣味デッキだったものが「遊んでいて面白い」を理由に身内で流行って、それが安価で強かったものなのに勝ち始めたことでスパイされて優勝は同型に持ってかれたよね。

 まあでも過保護のカホコちゃんだっただけで世の中競争というと取り合いの要素はあって、そこに著作権とか特許とかの法律が出来て今があるわけで。守られて力をなくした市民は作られたものを買うしかない状況に追い込まれる。同人でもプリンタでトレカとかシールを漫画の代わりに売っている人とかもいたらしいけどね。

 なんだかんだ、MTGで「回ると強い」は当たり前で、カンポスとかって「強いカードを如何に回すか」で青いドローサポートや特殊ランドのソーイングを使って、まあその戦略が流行った当時はカード1枚3000円以上で取引されて「買えるかそんなもん!」と思ったけど、対して赤単だとゲームの面白さは損なわれるけど、ソリティア的な面白みは少なくとも研鑽において期待値算出とか高校生くらいの確率統計が案外役立つけど、それは社会の人から見て小学校の算数。みんな実値の入らない代数学とかの難しい数式を畏れて有り難がるけど、論理客観実証で実証実験のために数値を代入すると算数呼ばわりされるという。

 白ウィニーにトドメの赤を足すべきか否かのジレンマは二色にすると土地事故が起こることと初手に焼きが寄ると初速が落ちること。またウィニーデッキの弱点は立ち上がりでライフもしくは戦場が大幅有利とならなかったら資源切れを起こすこと。それらを別の色のカードで補うことは何度も試みられたけど、だいたいジレンマを抱えて勝率は伸びない。

 その点、今回はウィニーに引き増しとレベルアップの要素を入れ、焼きまでつなぐ。ユーロのエルフアーチャーデッキにむしろ原点回帰に近い形になったと思う。日本に英語の先生に来ているエルフみたいな金髪の長髪の先生が街中でカフェとトレカショップに出没して、そこで少し話をして友達とも混ざって何回かMTGで遊んでもらった。

 俺のところの結果として、1マナ8枚、2マナ12枚、3マナ4枚、土地16枚で40枚。ジレンマは計算したり工夫したりすれば解消できる類のものではなく、これ以上は受け入れるしかないものというのが理解出来ると、それ以上悩まなくなってMTGに対する堂々巡りの自問自答から抜けた。

 ユーロ先生のデッキは全ては見られなかったけど、1マナと2マナ以外にはX火力1枚くらいしか入ってなかったな。俺の3マナ4枚は全てその後のセットの強いカードだし。刷新を繰り返す中で3マナのカードの中に相応に強いものが現れたということだと思ってる。

 そして今からテンペスト後の日本選手権に戻れるなら「マーフォークの物あさり」とか使うかもしれないなと思う。あの頃は相手してくれる人が少なく「やってみないと分からない」と苦しんだけど、コンピュータゲームを自分で作って遊ぶのも将棋盤を前にひとりで両方並べてみるのもそんなに恐らく変わらなくて、考えるって時間に多くを割いてきた。

 ただ考えるだけではなく、良書や良問に出会うことで考え方のコツみたいなものが出来る。それを持って考えると、難題に思えたものをスルスルと解ける(ほどける)そしてそれはそこまで難しい勉強ではなく、小中学校の取り残しをひとつづつおさらいするくらいでも十分なのかもしれないとも今では思う。

 ゲームに脇道それること自体が劣等生的であるとされたけど、ゲームの強さを決めるのにも頭は必要で、頭が全てではない負けも全て頭で負けたと思う思考回路で悔しさでおかしくなったけど、そこらへんの勝因敗因とか、自分のポジションとか客観的になると落ち着いた。

 まあ、あるカードが高値で取引されるなら、それを売って余り物で遊ぶという考え方から出発したデッキがチャンピオンデッキになって価格革命が起きたみたいなトレカ社会の事件よね。そしてその革命自体はジャンドでほぼ再現されたわけで。気づけば自分は40代。親父は70代。ベンテンドウの爺さんは店を閉めちゃったし、キューピー堂も駄菓子もトレカも無いもんなぁ。その分ネットで自分より強い奴いくらでも探せるんだろうけど、負けてくれる人が母数的に多数になる強さがあったとしても、負ける勝負に付き合ってくれる人って少ないのはオンラインだろうがオフラインだろうが仕方の無いことであって。

 結局何かで強くなる、それがゲームでとなると、強者のジレンマは相変わらずだと思う。勝って有頂天になるのはいいけど、天狗になった人を全員で敵に回す構図はいつの世も。味方がいっぱいいる系の強さはそれはそれで味方同士の人間関係の我慢が必要なのよね。


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