今日のカプエス2(Cダルシムでオールサバイバルはじめました)

3回やってベストスコアが12連勝。これが今の俺の実力か。

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暴走庵殺意リュウに勝てると、これ対戦でも充分通用しそうな気がしてくる。

 

アーケードモードは全部やっつけたが何か食い足りない。その食い足りない感じを対戦に求めたけど、実はオルサバでも充分に手強くて、それに敗れても勝った分を褒められることもなければ負けをなだめるものもいない。いや人間のメンタルって他者との関係性に於いて強化される部分もあるだろうから、ひとりで部屋でゲームしてメンタル鍛えるってのは何か違うかもだけど、メンタルさえ保てれば生活は支えてくれる人いるわけで。

ファミコンのゲームやサターンのシューティングでも1発食らったら負けというゲームを反復で上手くなれるなら、怒首領蜂を越したようにカプエス2のダルシムでのオルサバも研究とか攻略する価値はある。やっていれば正確なコンピュータが甘い行動をお仕置きの形で教えてくれる。思えばストIIXもリュウでクリアしてガイルでもクリアできてからあらためてストIIの持ちキャラのダルシムでクリアできるようになって、それからストIIターボをあらためて遊ぶとまた気づくこともあった。

カプエス2には前転や空中ガードにブロッキングやジャストディフェンスと色々のシステムが追加されたけど、発売されたすぐにそれらはダルシムにとって全て不利になるシステムだとすぐにキャラ替えを考えたんだよね。

そうして、キャラを変えて西大寺キャノンショットの全国予選を取った。全国大会にダルシムを持ちキャラに入れている人はひとりも居なかった。

思えばあの頃はワンチームでみんなの強さの絶対値を上げようみたいな馬鹿な考え方だった。

自分が最後に勝ちたいのなら、するべきことは協力ではなく闘争ではないか。競争や戦争と協力や共和がどうして対立軸になるかということを身をもって知る体験だった。

大会まではみんなで頑張っても、そこに優勝のステージがある時に裏切るものが出る。

あの大会の後に街を歩くと多くの外国人のキリスト教布教者から「あなたは何故イエスキリストが殺されたか分かっていますか?」と問われた。数回だが、偶然の重なりには思えなかった。

キャラ差論争というと、ストIIの頃には自分のキャラが弱いから負けたのはキャラのせいであるという切り口だった。そうして、ストIIダッシュストIIターボではキャラ差が是正された。まずダッシュで旧8キャラが。そして強すぎた四天王が調整されてターボで文句は減った。

だけどそれはストIIの狭いコミュでの論議のあり方で、新キャラ4人が加わったスーパーストIISNK餓狼伝説2から餓狼伝説スペシャルなど、発売されたすぐのゲームでどのキャラが有利か、議論以前にくじ引きのようにキャラを決めあって実験になる。

それを繰り返して、カプエス2の時にはゲーマー同士で簡単な議論が起こった。それはストIIのキャラ論争と違って、キャラ差に不平を訴えるものではなく、勝つためになるべく有利になりそうなキャラとグルーブを見極めてそれを選び取りたいという全国大会までの期限付きで目的を持った議論だ。

あの時に既にダルシムは弱いと断じた。そしてオールサバイバルの連勝結果で計ってみても、ダルシムは俺自身のザンギエフよりまだ少ない。

それでも、ストIIストIIダッシュの区別がつくのは1993年にゲームに夢中だった人だけだから、例えばゲームに夢中の子供でも新作だと思って親にねだって「何が違うのだろう」とか「騙されて同じものを買ってしまった」と思う人だっているような商品群なのだ。

その中で俺はイチバンを目指し、なったこともあり、それでも足りずに求め続ける。

そこに実力至上主義と、キャラ差があるコンピュータゲームなのでプログラム改変とか、企業買収まで考える真の実力主義スポーツマンシップ的な公平の中での実力主義、はたまた外圧的な調整的公平を求めたり、ヤクザでいう強きを挫き弱きを救う「任侠」でのものの考え方もあるだろう。

そこで、いったい誰が何をもくろんでいるかわからない匿名掲示板ってやつで答えが出るとは俺は思えない。右か左に偏ったやつが自分の立場が有利になるように組み立てているだけだ。

だから論壇に立ったり、掲示板で論陣を張るよりも、家でひとりでダルシムをもっと極める。

まずそこまで挑むものが居ないのに、何を持って論戦を始めるかというところが定まらない。「俺が自分でやり比べてダルシムの結果がいちばん悪かった」というところが出発点であったのだから、あらためられるのとしてまず自分の腕というところもあるだろうと。


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