俺がストIIで勝てたのは、全キャラ使いこなして有利な方を取れたから。
対してストIIターボで負けたのは、ストIIで強かったダルシムを自分のメインキャラつまり思い入れがあり必ず勝ちたい試合や大会などで使う特別なキャラとしていたが、ストIIダッシュとターボでのダイヤグラム変化でダルシムは勝ちたいと思った時に使っても必ず勝てるキャラではなくなっていることに気がつけなかったこと。
マイコンBASICマガジンやゲーメストの熱心な読者でないと、ボタンを押して遊んでいるだけでは分かりづらい微細な変更点がある。
特にダルシム対リュウでは初代ストIIではほぼ無意味技だった竜巻旋風脚が「のぼり際降り際が無敵」「前身中にヨガファイヤーを避ける」「当たるとダウンを奪える」と三拍子揃ってリュウが有利に。それでも長い手足が中距離長距離でダルシム有利なのは変わらなく、リュウの波動拳を見てからスライディングでカウンターできることなどは依然としてダルシム有利。
では何故ダルシム有利でなく五分からリュウ有利だと俺が考えているかと言うと、長距離では戦うことをあきらめてリュウがガードに徹した場合、ダルシムから投げに行くことは難しく、ヨガファイヤーで体力を削らない限り試合が動かない。
そのヨガファイヤーを待って竜巻旋風脚で近寄ったり、読んでジャンプキックでカウンターできるとリュウが勝てる。下手同士だとリーチの長いダルシムが勝つが、リュウ側の研究がずっと進んでいたと言ったほうが良いかも知れない。
ダルシムの方も徹底すると、タイムオーバーまでヨガファイヤーを打たないでリュウの行動に対してカウンターを狙い続けると、また違った勝機が見えてくる。そこまではターボの頃は考えられず、減らそう、攻めよう、負かそうと考えていた。
それがタイムオーバーまで張り合うとどうなるかに変わったのは最近のことで、多動性症候群みたく「とにかくキャラを動かして遊びたい」から「勝ちたい」に完全にロジックが変わったからだ。
ゲームを「映像や音楽が操作と絡み合って動かして遊ぶもの」から「勝ちと判定されるパラメーターをいかに取り合うか」に抽象化して考えるようになったからだ。気短に先に動いてしまう性格は向精神薬で改善されたのだろう。
'93国技館での敗退はいちどは記憶に蓋をした辛い出来事ではある。しかし、前進するためにはその傷にそっと手当をする必要がある。まだ、その記憶とどう向き合うかは考え出したばかりである。今日は朝から、いちど思い出して静かに涙を流した。あの時はどうだったろう。電話越しに親がすすり泣いているのが聞こえたが、自分が泣いてしまったか、我慢したかはあまり覚えていない。しかし思い出すと悔しさではなくただただ涙が出た。
あの試合をもういちどやり直したいのだ。違うゲームで優勝したからと言って、それで良かったことには出来ない。ただただ事前練習や事前研究が不足していたと思う。負けた時は大体がそうなのだ。その反省は今後に活かすべきで同じことを悔やんでも仕方ないという人もいるだろうが、今考えても負けた時にではどうすれば勝ち目があったか分からないままというのは気持ちが悪い。
それは多く俺がゲームセンターで100円さえあれば何度でもリベンジできる環境で考えたからだ。負けても負けても勝つまでやる。コンピュータゲームという物自体がインベーダーやポンから、何度リトライしてもコンピュータが同じように動いてくれるから反復練習が成り立つものである。
対して国技館でのストIIターボは二度と同じ試合の出来ない体験だった。人生とは本来常にそういうものであるかも知れない。あるいは学校のようにスケジュールが教師から事前に決められていて、予習して復習すれば予定通りに進むように、律儀なひとには順風満帆の人生が開けている世界観もあるのかもしれないが、そのマンネリ感に耐えかねて飛び出した世界で自分では歯が立たない相手との戦い。それはゲームプレイヤー個人の力量の意味でかも知れないし、交通の便や立地などの格差かも知れないし、大会運営という大事業イベントを企画する組織との戦いかもしれない。
それを練習して実践するアスリート的な考え方で自分への敗北であり、自分さえあらためたら結果を変えることが出来ると信じるに足りうるだけの自信をあの頃と同じくらいの思い込みまで強めないと、自堕落に過ごしてしまいがちである。
あの頃から俺はリュウやサガットを持ちキャラに替えれば優勝できるかもしれないというような考え方に変わっていた。そしてそれはその後の色々な格闘ゲームで結果となった。