プロ棋士の謎に迫りたかった

 コンピュータに将棋を指させるというと、

RUN 2726(2六歩)

IF  8384 THEN 2625

IF  3334 THEN 7776

 みたいなプログラムをイメージしている人は結構いる。コンピュータ将棋の中にはそんなものもあるのかもしれないから、それが間違っているとは言えない。

 俺のブログの中でも恥ずかしい過去ログであるコンピュータ将棋の「後手の最善手」というものを考えて、しかし投げやりに書き終えたところがトップヒットなのだが、まあ先手必勝または引き分けだ今では認めるべきだと思っている。

 それでもプロ棋士という職業は存続しているし、子供の頃の夢でもあった。

 じゃあ、コンピュータで先手必勝を取れるとして、プロ棋士とはどんなお仕事なのか、またその将棋はどんな内容でコンピュータとは何が違うのか。

 そこら辺のことが「コンピュータが考えて指す」将棋AIの研究で随分と変わったんじゃないかと思っている。人間同士の対局である以上は、先手後手ともに最善を尽くした長手数の将棋ではなく、毎日同じにならないように手を変えて勝負を見せるのだ。

 もちろん、以前にも書いたが、最善が最善たる所以というか「これが最善」というのがまだ決まったわけではない。だが、それを求めんとしているのはどちらかというとコンピュータ将棋の方で、棋士のほうは「答えなんて求めてもらっちゃ困る、商売あがったりだ」と考えているかもしれない。

 コンピュータ将棋にも将棋が好きで楽しくてプログラムもコンピュータも好きでしている人ももちろんいるけど、棋士のような遊び人を許すまじとして答えを出して終わらせてやろうという方面もコンピュータ将棋に期待を寄せている。

 その二者間での争いが熱を帯びたり、答えが出たと自分なりに思ったらやめる人が出てまた鬼の居ぬ間に勝者が変わったりして、そこから新しい意外な手が出たりしているようで。

 人の口癖に「どう考えても」というのがあるが、まさにコンピュータの考え方を考えるソフトウェア工学的に考えるのと、IF~ELSEであってもまず自分で将棋を考えるか棋譜を読むかして1手ずつ打ち込むにしても、モンテカルロ木探索かミニマックス法か、その中で局面を評価する関数をどう定義するかなど、プログラマの数がいれば別の考え方を持った人と違うソフトというのは出てくる。

 その中で、考え方が違っても同じ手を選んでそして勝つということは起こり得て「どう考えても」は慣用表現ではなくまさに別々の考え方が合議を取るまでもなく同じ答えになるのが物理学的な統一理論というひとつの夢である。

 だけど、コンピュータがわざと負けようとしたらどうなるかというと、そりゃ勝とうとしているプログラムと負けようとしているプログラムが戦ったら勝とうとする方が勝つだろうが、俺の「将棋ベーシック改」は勝とうとして、負けんとしようとしているのか本当に弱いのか分からない「きふわらべ」と2回引き分けた。

 そうすると「どう考えても」は勝とうの一点張りだから将棋のルールに従って合議の一致をするわけだが、プロ棋士は昇段試験には最初は本気で勝とうとしていても、プロになった後は勝負している人とエンターテイメント性を考えている人など、様々な考え方があるんじゃないかって思うのは、読んだ人からすると当たり前かもだが、新鮮だ。

 そう考えると、謎のヴェールに包まれていたプロ棋士の考え方のうちの一角が姿を現したのではないかと思う。

 さらにコンピュータ将棋の開発もオープンソースの優勝から、仕様を秘密としたソフトの隆盛が起きてきていて、また観戦の楽しみが戻ってきたと感じている。

 俺の年が45歳なのでテレビで藤井七冠誕生のニュースを見ても、負けている人の方が歳が近いので喜ばしいニュースというよりは悔しい感情の方に心が動く。

 将棋指しというのは頭を使う仕事だからお酒はダメで乾杯は完敗とかかって縁起も悪いということをコンピュータ将棋の大会に出るときに教わったが、最近ではSNSで缶ビールの写真を送り合って飲んだくれている始末。

 最近、おいしいものを食べて飲むお酒より、不味い魚の肝とか食って飲むお酒もお酒の味が良く思えて良いもんだなと思う時があります。将棋に負けるのも酒が進むのよ。


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