
順当に行くと1階あたりアイテムは5~6個出るので6階にもなると使う分を合わせてもアイテム上限の20個を超えて余すことになる。今回は6階で店が出たが、持ちきれずに反対に売るくらいで探索を終えた。
最善手とかは、まだそこまで考えず場数をもっと踏むこととした。まあ気楽にやって6階レベル6で中断。26分の冒険で198回目なわけだから1000階の冒険で1回5時間という所とは、それは正準相関に差がありそうな気はする。
チートを疑うのはその他の投稿が荒らし行為みたいな案件についてそう思うのだが、トルネコ3異世界大好きという人の輪もあるようで、グルになってチートでプロパガンダを張っているとすると張り合うのも無駄だが、相手も無駄な労力を割いているという事になり、まあ強く見えている方が得かもだがな。その辺は気にしない。
というか、チートでも「解けた」というニュースが無かったらもうずっと放置していたかもしれず、放置し始めた頃よりは今の方が上手くなっているので、俺に取ってもチートでも「解けた」というニュースが来て挑んだことは有意義であったと言える。
そこはだから解けなくても相手もチートだったかもしれないわけで半信半疑で解けない事に劣等コンプレックスを抱くほど落ち込むことでもないというバランス感覚。
俺の劣等コンプレックスは異常で、体もデカい、成績も良い方、お金もあるというのは国家統計の平均値や中央値を見るとそうなのだが、進学校でエリート志望の中で負ける所での6年間がそのまま第二次性徴期とかぶっているので、ただ男子校で女がいなかったから出会いも交際も無かったのが「ダメだからモテないんだ」みたな劣等コンプレックスとなり、それを40代まで引きずって来た。
いや、振り返るとあったよな「モテ期」この単語自体は古いが。そして既に勝っている相手にすらいちど敵だと思うと自分の劣等コンプレックスの裏返しで勝てる相手をとことんまでイジメてしまって来た。「そこまでしなくても」と言われるほどに。
それでも向上心を持って、もっとレベルの高いコミュに混ざりに行って、また新しい劣等コンプレックスを仕入れて帰って来る性格というか行動様式を持っている。
そのへん「もういいか」という風に自分を許すことが心をちょっと軽くする。
けど、向上心コミュからはしんがりになってやがてはぐれて孤独感もある。あっちは俺の居場所じゃなかったんだと新しい居場所は常に探しているが見つからない。
それでも親父という家族がいて、スーパーで買い物して町行くおばあちゃんたちを鬱陶しいなぁと思いながらもどうにか町の中で生きているわけで、この孤独は物理的距離ではなく俺の作った心の距離なのだよな。
「鶏頭牛後」も「トップグループのドベになれ」も両方違う気がする。牛の頭から尾っぽまでと比べて鶏の頭の方がまだ劣っているみたいな一元的なレート比較を尺度を変えて繰り返しているんだ。学校の成績、格闘ゲームの勝率、年収、貯蓄、トレカのプロポイント、トルネコの階数、古くはドラゴンクエストモンスターズのレベル。はじめから、普通の人はその尺度にそこまでこだわっていないし相手もしていない。
気にしてその尺度で比べようとして、勝った負けたをさらに気にする、気になったらそればっかりに固執してしまう。それは俺が数字にしか着眼点を持っていないから。
先日はMTGも色を変えて気分が変わった。映像とか音楽でも気分は変わる。トルネコ3でも特にGBA版を選んでいるのはドット絵のトルネコが愛らしいから。
そうは言っても絵描きとして修業はしていないし、演奏家としても音にアバウト。けど受け手と作り手の中間くらいに位置して、他の同業者と比べて色や音に敏感な部分があり、そうして絵や音のセンスのあるグループに混ざろうとしているかもだ。
その中でまたSNSの数字などに気を取られることもあるが、数字は数字で色は色、音は音。黒より白の方がRGB値が大きいのはそういう定義があるからでRGB値が大きい方が偉いというようなことは無いし、音だってもっと複雑なものだ。
あとは今読んでいる京極夏彦についても1冊目を読んで読書仲間と話した時に「まあ面白かったけど短くまとめるってのも才能やと思うんやけどな」とその分厚さを皮肉っていた。根本的に「分厚い方が偉い」みたいに積読して雑多な知識を取り込もうとして、そしてあまり読者も獲得できていない現実だが、32人は多いかも知れない。
SNSも200人中100人くらい良く分からないアカウントだから、実質100で良いかも知れない。100フォロー・100フォロワーで友達が居ないと言っているの、もっと多い人でも同じこと言ってる人がいるけど、SNSのフォローフォロワーって何だろうと思うと、ネットでそれ以外の友達の尺度もまああるだろうけど、みな「ふんふん」と黙って読んでくれているわけだから、物理距離があっても友達で、近所に人がいても話をしないのと好対偶を成しているわけだ。
俺ももうちょっと自分ん思考を論理的に整理し直さないとなと思うんだけど、なにせ量に賭けて来た部分があるので、いちいち考え直して正論化するのに時間がかかるのも道理なわけで。この厚みが俺の思考ではなく原稿となったら推敲や編集や校閲に半端ない手間と時間がかかると思うと、長文だけどかなりの問題案件ということになるな。ご迷惑おかけしてます。読んでもらえるだけいいやん、というのが率直な感想。
