ヤンジャンの久保さん読んでて思うんだが

久保さんの「空気系の存在感のない主人公をかわいい系の久保さんがいじる」な。

振り返れば俺は20代の頃に貧乏な女子たちに「モテさせいじめ」を食らったと思う。

誰も、結婚とかお付き合いとかする気はないムカつく男にキレイな女子が寄ってたかって権力を持った偉い人の前でいじめの標的としたい男にキャッキャウフフして嫉妬させて失脚させる。

これ、キャバクラにハマってから「あいつらわざとだな」と思うようになったんだ。女の戦い方とでも言うか。キャリアウーマンに本業のキャリアで負けるよりよっぽど怖い。

その恐怖心とか、どうして俺がタゲられたみたいな気持ちが、毎週マンガを取ってみることで当たっているかはさておき、まあ「こういう風に見れば腑に落ちる」みたいなところで安心感に変わっていっている。

ある種、大金を手にするみたいのが成功のひとつの形だと思っていたことがあるが、マンガ雑誌は1冊360円、俺はこれを1冊読むのに1時間くらいはかける。活字だけひろうと話は追えるが、絵もじっくり見たいからだ。2冊も取るとスキマ時間がどんどんマンガに食われていく。360円をモノを買うという行為で消費するのは色々なものがあるが、マンガを読むとなると1時間の経過時間を見込まないと消化できないのだ。10冊買って読まないのと、1冊買ってちゃんと読むのでは全然変わってくるだろう。

そういう意味で、ビジネスマンは新書を読むものだが、この新書というのが曲者で、大きな社会情勢、社会問題についての不利益の可能性について書かれているのだ。アンタ偉いのならこれを何とかしてくれと頼まれているようなものである。

俺は新書1冊読むのに丸1日くらいをかけていた。マンガなら5冊は読める。

こうして、俺は政治活動家や社長さんと話をして、社会問題を請け負いながら自身もプログラマーとして働いていたのだが、パソコン業界からユーザー企業である大阪ガスや関電などの研究所に赴任したら、これがもう予想以上にまったりした空間だった。

そのへんで、俺はいちど自分のキャリアがプログラマーで良いのか考え直して、憧れていた歌手になるためギターの練習とかを始めたりしたのだ。このへんから、俺は付き合いのあった界隈からもそうでない人からも何者かわからない人に分類され始める。

俺もまったりしてやる。そう思いつつもせっかちな気質でもある。朝カプチーノを入れるにしても、親父は水を入れて電源を入れてコーヒーを注いでから砂糖とミルクを入れるのだが、俺は電源ボタンを押してから機械が温まるまでに水を入れて右手にミルクを持ち左手の中指でカップを持ち人差し指で砂糖ケースを持って砂糖を入れてから、コーヒーを注いでミルクを入れてから、パソコン机に持ってきてカプチーノを飲んでいる。

忙しいのかカプチーノを飲んでゆっくりしたいのか、自分でも分からない。

まあ、マンガ週刊誌を取るくらいの余裕ができて、それを話題に話す相手も欲しい。

新書を1冊取ると、このまったりしたマンガ空間が少子高齢化問題対策室に変容して恐ろしく忙しく感じるのであるが、新書を閉じてマンガを開けばさっきまでのを異世界に感じる。いや、本来マンガが異世界で新書が現実ではなかったか?とも思うが。


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