DTMへの憧れはいつしかなくなり

 昨日は池田大作さんの訃報。俺には専門卒の学歴があるが、20代の頃に独り暮らしのワンルームマンションに聖教新聞の営業を受けておばちゃんを入れてしまうとそこから5人6人と創価学会の人が上がりこむようになり、折伏というらしいんだが、警察を呼ぶことをまだ知らなかったので占拠されて創価の活動に参加した。

 だがまあ、自分ちの事すらよく知らなかった俺が日蓮宗を学び仏教が国教になったのが奈良時代、家にもお仏壇はあったがそれは阿弥陀でうちは八幡神社に奉書を納めていて、宮家とは何か神道とは何かという事を学ぶと、なんじゃ俺はサラリーマンだと思っていたけど旧家だったんじゃないか!と頭がおかしくなって行った。

 それでも創価で活動していた頃の「願いが何でも叶う」というのも案外とやってみるとデマでもなく大体の人が「テレビに出て歌手になりたい」みたいなもので、それは昨今ではユーチューバーなどの形で小さく実現する。それは創価のちからではなくITのちからだと言われたら、まあそうんなんだけど、そういうのが無い時でも創価の会館で楽器を演奏して信者の人が集まって聴くというような集会があり、バンドが好きな子が創価に入るのが珍しかったのか、障碍者コンサートなどにも招いてもらった。良い演奏だった。

 そうして自分でもギターの弾き語りとDTMを出来るようになって、片付けたDTM雑誌のうち引き出しに「こんなの数冊置いてけばいいかな」と思って以前に分けた雑誌が全部鍵盤楽器関係で「そっか、俺は深層心理でピアノ弾きたいのだろう」思った。

 まあ、俺のしてきたオープンソースでも偽善と言われることがあるのは俺が家で引きこもりで近所の事を手伝わないで、ネットでソフトを公開してもしかしたら儲かっていると思われるからかもだが、善と偽善(悪)という仕切りではなく、経済と公益という軸でモノを考えたときに図書館が出来て町の本屋さんの経営が危ぶまれるということを考えると、本が経済を動かして金持ちがカネで本を買って知識を独占するということが無いように民間利用できる図書館のほうが公益性があるわけだが、俺はもともと本屋に通うタイプで、図書館が出来たら本を買う数は減って、書店がマンガ中心になって、図書館にはマンガはあまり置かれず、図書館は間違いなく公益だったと思っているのは俺が本を読むからで、本を読まない人には税金の使い道のひとつでしかなく、公益というものが無条件に善たり得るのはもともと金持ちの独占があったからそれと対比的に善なのであって、今時の世の中には秩序以上の善など無いのかもしれない。

 そうるとピアノくらい練習したら良いと思われるかもだけど、音が響くと近所の人には迷惑で、下手なうちに練習の音を辛抱してくれる身近な人への迷惑がやがて多くの聴衆をつかむ大音楽家になるとすると、その時間差的な多数決によって名手が生まれるのだ。

 そのへんまで考えたらDTMへの憧れも「ゲーム音楽チョット作ったし」で満足であり、ギターも道半ばではあるけど適度に飽きていて、あとはピアノだなぁと。

 その時ふと、ガンダーラはインドにある楽園だけど、時間差的に遠方に話が及んで旅して着いたインドがガンジス川に身を投げる貧しい地獄のような国であっただけで、実は噂が立ち始めた頃のインドは豊かだったのではないかとか、ぼんやり考え出した。


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