DTMマガジンのバックナンバーを読み込む

 DTMマガジン2012年5月号「藤巻式作曲入門」を読み直し。

 あの頃は確かMacBookProをメインに使っていて、GarageBandで今でいうAI作曲に近い感覚に酔っていた。色々な音源素材が入っていて、聴き比べて「いいな」と思ったものを簡単操作で重ねて行けば「何か曲っぽいもの」が出来てしまい、それを自分で作曲したと言って良いのか、自分の名義で海外の配信サイトと契約した。

 だけど今思うとあの時に配信サイトではなくJASRACの契約を知っていたら、そっち使っていたと思うし、今でもまだJASRACとはライセンス利用側の関係性になっている。

 それはさておき、MacBookProはHDDが満杯で挙動も遅くなって畳んでしまってあるので、今使っている富士通で音楽をするとなると、最初に考えるのは無料ソフトのダウンロード。だが待てと。Macの時にGarageBandで作曲して「これホントに自分のって言って良いのか?」という疑念は最後まで消えなかったはず。

 だからして、せめてピアノロールで自分で打ち込むくらいの仕事はやらなきゃとDTMマガジンのバックナンバーを棚から引っ張り出して読んでいるわけです。

 何事も「やろう」と思ってから、その取っ掛かりになる部分が俺には大事。ギターだったらコードを鳴らすのがそうで13年やっても最初の1週間くらいで手癖に覚えたものの応用で全部やっちまおうとしてる。かといって、それ以外をやろうと雑誌をペラペラ見ても引っかかるものが何も得られない感覚もまたあって。

 DTMGarageBandの記事以外はホントに読み飛ばしだった。それが今日になって、10冊くらい積読してあったものから1冊「今の俺にはこれだ!」と思うものがきらりと光って、スラスラと入ってきたのだ。

 実は朝からギターをパソコンに録音しようとシールドケーブルを変換機でイヤホンプラグ小サイズにしてマイクのInputに挿して「音入らねー」とか超初心者な事をやっていたのですが、それ以前にはケータイのボイスレコーダとか動画カメラで自撮りしてパソコンに送っていて、音質とかを気にしだしたのですよね。

 45歳という歳となって、プログラマとかシステムエンジニアは職歴としてはあるけど音楽をやるとなるとまるで前科のような無関係なことに没頭していた時期であり、パソコン詳しいとなってバンドに絡むとなるとDAWとか宅録の心得はあるものと見なされがち。システムエンジニアのエンジニアという名前部分だけでFAXの修理を頼まれるという例のやつである。

 まあ、そんなわけでイメージ負けしないように知識武装を企てて古雑誌を読み込むとその中から自分に出来る仕事を見つけてひとつづつユーキャンみたいに実践するのみです。モノが必要になるように雑誌が書かれていて、雑誌は格安で宣伝費が入っていると思うので、載っているモノの商品寿命と雑誌の価値がかなり近い感じだから、ケチンボすると広告読まされて無駄に感じるけど、その商品を手に取るとなると数少ない優良なマニュアルとなってくれる。そういうもん。

 だからしてギターを持っているからギターの雑誌全般は有用だったけど、DTMに関してはまだまだ買い揃える勇気と財力と場所が足りない感じはしています。

 まあ今日はギターバンドのコード進行とDTMピアノロールのコード進行がちょこっと交差してだけど譜面で見てちょっとコツが違う感じなので、そこを吸収したところ。

 心の葛藤を書き出す小説思考の人間とは会話が面白いかもしれんが、そういう本読みには読んだだけで何もできない人が実は多く、現代には写真があり写真付きでハウツーの書かれたマニュアル本を読めば大抵の事は同じように出来てしまう。だた、ハウツーで出来てしまうと深く考えないために何らかの弊害は危惧される。

 俺の場合は何もできない劣等感コンプレックスが謙虚さと人当たりの良さになっていたが、小説からハウツーに読むものを変えたキッカケがギターで、それから色々できるのが自信になってやや不遜に人に当たるようになってしまって、その原因がスキルの完成度が低いからマウントを十分に取れていないからだという理解をいちど通り過ぎて、あまりに何かに秀でていて欠点を許される人の真似をするよりは何かに自信があっても人というのはそれぞれが得体の知れないものであり、畏敬の念を持って接するのは武家由来の敬語文化から離れたとして、人に人としての尊厳を持って丁寧に接するということをどこかに置き忘れてきてはいないかと内省するのである。

 特技でもって畏敬の念を抱いていた偶像に対して何かの技芸を身に付けることで畏敬の念を無くしたとして、それでもその人にも人としての尊厳と、技芸にまつわる崇拝以外の年長者としての威厳とそういう上下関係以前に上下関係があるからそれゆえに目上に対して謙遜するのではなく、自分はもともとどうしようもない人間であるという控えめさはそれはそれで自信からわくものであり、ホント言うと技芸を中途半端に身に付けて披露の場が無いからゲーム強くて自慢をしている頃はそれでも「ゲームなんてもんですから」って遠慮が多分あって、そうじゃなく役立つと広く認められている技芸に対しての自信と遠慮のバランスがまだ取れていないのだろうと分析する。

 ゲームに強くて「それがどうした」と言われると、そこを皮を一枚切らせて奈良学園卒の学力があるというのが裏の自信だったんだろうな。それが今はギターの練習を手前味噌にしながら自信にしていて、だけどそのギターの上手さで負かされることしばしだし「それがどうした」と言われるとギターを手にしていることが自分の自信の根拠の全てであるので皮ではなく骨肉を切られるように痛むのだ。

 だからやっぱりデジタル録音とか編曲とかパソコン音楽回りも強くなって「それがどうした」と切らせてギターが弾けるという二段仕立てに武装しないと安心できない。

 その意味でまあまあDTMマガジンの読み込みにもそれなりに身が入るのであった。


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