「善」を目指してDTMもギターもやっちゃうよ!

 音楽を聴いて「良いな」「イイね」と思ったことはあるだろうか。

 もしそんな気持ちをいちどでも思ったことがあるなら、あなたの中には「良い音楽」の尺度がかならずひとつはあることになる。反対に俺は子供の頃から親父のオーディオに囲まれてテレビやラジオやオーディオから鳴る「良い音楽」だけで過ごしてきた。

 そうすると、小学校の音楽の授業は子供ながらに子供っぽくて物足りない、ピアノを練習してもテレビの人と差がありすぎて自分の演奏は聞くに堪えない。「弾けない」という感覚を強く持って育った。

 まあそれでも「努力は実る」という言葉をひとたびは信じてギターの練習をして、甘えるようだが自分の演奏に一定の満足は得られるようになった。ただ、努力って何だろうということをアリとキリギリスで考えると食料を運ぶのは仕事で音楽は遊びである。俺は俺でギターの稽古を努力だと思っていても、傍からすると遊びという人だっている。そして、努力を努力と認められてそれでも実らなかった人に公平の物差しを当てて、救済が必要だとする左の論者に負けそうになるが、それは裏を返すと努力はしても実らないから救済が必要になるというのは極端だろうか。

 もういちど考えると、俺は「頑張った演奏」を聴きたいのだろうかと問う。楽器に頑張るとか努力とかってあるのかというと、最初に言った「良いな」と思う感覚を自分の演奏の中にも見いだせるときはある。もちろん100点満点では無いし、そもそも満点があるのかも怪しいが、自分を甘やかして褒めてやることは出来る。採点が自分だとね。

 世の中にはもっと上手い演奏とか精密な機械から鳴るプロと同じ音楽があふれていて、比較的に俺の演奏では満足が行かない人だってたくさんいるだろう。そこにはある種の落胆はある一方で、自分が見失いかけた「良い演奏」の善なる方向性が確実に「ある」ということでもある。発見したかのような気分だ。

 神が全知全能だとすると「神には壊せないものを作れるか」という問いで、もし作れたら全能なのに壊せない事になるし、作れないなら壊せないものは作れないことになるという論理があるのだが、この落とし穴は神の能力ではなく「壊せないもの」という形容詞が含む矛盾であって最近では神の全能を否定はしていない気がする。

 確かに無理なことは世の中にあって神様にも出来ない事もあるかもだけど、竹槍よりは石の槍、石の槍より鉄の槍の方が恐らく強く、人と文明は順調に進化している昨今である。だからもし最強の盾を最強の矛で突いたらどうなるかは分からずとも、両方確実に以前よりは良いもので、それは作り続けられる音楽も名曲がどんどん増えて行って、楽器もオーディオも何もかも良い方向に向かって、そして自分もそれを信じて練習に励めば今の自分より未来の自分のが良い音楽を奏でられるようになるというのが希望だ。

 そこへ来ると、公平なんてのは善を目指すものとそうなれなかったものの差を人為で強制的に埋めんとする乱暴のようにも思えるが、しかしいざ自分自身が善と成れなかった時に何らかの手助けで善に近づけるのなら、それはすがる気持ちも分かろうもの。尺度があって差がハッキリするから埋め合わせたいという天秤が動くのである。

 まあ、そんなこんなでギターの練習もDTMの勉強も遊びと思う人もいるかもだが俺は暇している時間を善なるものを求める時間に変えるものとして取り組んでいるが、自分でするのではなくせっかくパソコンがあってネットに繋がっているなら良いと思う音楽をそのまま再生すれば良いじゃないというのが敵対勢力ではある。

 おかしな話だ。自分が善なる演奏を求めて練習する最中、既に良いとされている演奏が聴けるのにそれをしないで自我を持つのは悪ではないかとも思えてしまう。

 人の演奏も聴くし、自分でもする。ほんとにメシが無くなったらアリさんにぶっ殺されるキリギリスのような人間なのかもしれないが、俺はそうなのだ。

 善とか悪とか語りながら、俺には目指すところがあってやっている事なのだ。

 スクショで使っているソフトはSSW7(シンガーソングライターセブン)なのだが、最近どうにもこのシンガーソングっライターという出発点が音楽の出来の良し悪しではなくひとりで全部やっている偶像の属人性に高みを見出しているところがイケてなく、コンピュータもギターも使うわけで目指す方向を修正してちょっと違う落としどころになるだろうとは思っているのだが、初心忘れるべからずということで使ってます。


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