決まり文句の本当の意味と文法解釈による呪い

 俺の住む大和郡山市では俺が子供の頃に少年ジャンプを取るようになって最初ドラゴンボールが目当てだったが北斗の拳ジョジョの奇妙な冒険なども流行った。

 古都奈良というとどんなところだろうと思われるかもだが西友があって西武ライオンズの応援セーがあり、南都銀行奈良信用金庫という地銀がある。近鉄の駅を降りるとどこも駅前は南都銀行があり「京都や大阪まで出たことがない子供の頃は南都銀行が日本で一番大きい銀行だと思ってたわ」というのは就職してから先輩が言った嫌味のような冗談だが、実際に日本で五番目くらいの銀行らしい。でも古都の城下町と新規開発のマンションが臨在する日本のそこかしこにある田舎町とそう変わらない。

 そして商店街の側には骨董品を扱う店などがあるが、みな裏の商売があって、店先でモノを買う人などはおらず閑散としており、話し声と言えば近所の子供くらいだが、そこに公団やマンションが出来たのでサラリーマンの子供が混ざって、それがライオンズファンなのか近鉄阪神かくらいでウチの親父は巨人が好きだったが、さらに少年ジャンプが来てファミコンでもゼビウスグラディウスなんてのはうちだけで、聖闘士星矢とかファミコンジャンプが出回る昭和のありふれた街だった。

 そして小学校の話というと、どこも最初は親の口真似であり、ケンカが起こってどちらかが勝つと勝った方の言いぶりが拡散される。同じことを言うやつがいたら、勝った文句を真似れば相手が黙るのだ。「ああいえば、こういう」以外にどれほどの言語理解があるだろうか。その中に俺は恐ろしい呪いの言葉を見つけ出した。

 「誰もそんなこと言っていない」

 というやつだ。誰かが相手の文句を受け間違えたときに「俺はそんなこと言っていない」というのではなく「だれもそんなこといってない」というのだ。この「だれも」はその文脈からは「自分が」であるが、言葉を学ぶうちにひとことずつの意味が分かり、ある時に俺がギターを弾いて歌った動画をネットに上げたことを口に出すと

 「誰もアンタがギター弾けるなんて思ってない!機械でやってるだけだろ!」

 というやつが居たのだ。

 俺はこの言葉に震えるくらい驚いた。何万PVとカウンタが回ったのに、その誰もが俺の演奏ではなく機械だと思っている!と決めつけられてしまったのだ。怖い。

 そして、動画に付くカウンタやコメントなどではリスナーは観察できないので、直接来る意見というのはとても存在意義が大きく感じるもので、この「だれも」は強烈だった。

 そして考え直すと、楽器屋さんで演奏させてもらったり、飲み屋で客の脇で演奏するバンドのオーディションを受けたりしたことがあり「だれも」ということはなく少なくともその界隈は俺の事を知っているはずだよなと考え直すと、人の言う「だれも」の意味も口ぶりの真似でそうなっただけで「俺は」「ぼくは」「わたしは」ということが言えない自分の意見の無い多数決主体の最下層民が他の多くのものが同調して味方に付いているという威しをこめるために「だれも」という意味で「我々は」という風に言うのだ。

 しかし、その「だれも」は「われわれは」ではなく「そのひとが」でしかない。

 こういう語句解釈というのはまだAIには難しいと思う。意味が分かるので、同じように言われると口真似で同じように言った人の命令を正しく解釈して脅され負けてしまうのだ。「しばいたろか」は脅迫だが、しばく「ちから」が無くてもそういうと相手はすくむ、それは殴られることはないと秩序ある奈良では安心しきって「じゃあしばいてみろや」とか口喧嘩が真に受けるととてもひどい言葉までエスカレートするのだが、最近の俺なんかは最初の方でもうそれは空恐ろしくなってしまうのだ。

 まあ、その意味では俺も「だれも」に呪われて「誰もお前のブログなんて興味ない」と言われても、読者はいるし、アクセスカウンタも細々と回っている。機械が俺を安心させるために数字を増やしているだけという可能性を否定するのはここにいては難しいが、ネットワークルーターがあって、電話回線とか光ファイバーとか無線があって、ケータイとかパソコンで日本とか世界の至る所とまでは言わずとも津々浦々のどこかしらで俺のブログは読まれていると思うからこうして毎日書いているのである。

 それが理屈で分かっても「だれも」というのは独り身の人間にとって全てが敵に回ったような「囲んで石投げたろか!」みたいなひどい文句なのであるが、これも「だれも」を平気で使う「だれも」が全く意識せずに使っている大和郡山市の言葉なのだ。

 少年ジャンプと違って誰も取らないギターの雑誌を取る俺だが、日本全国では三万部ほど出るらしい。その率実にマンガ本の1%ほどであり、少年漫画をバカにしてギターを手にすると100対1くらいのレシオ差で殴られることになる。

 怖いことだが、歌を歌うことで言葉の本当の意味が分かるようになると、子供の声でもひどい言葉というのに敏感になってすくんでしまったりすることがある。

 大和郡山にも昔は町はずれにギターを置く楽器屋さんがあったそうだが、人が歌う街ではない。お役所のちからで図書館と音楽堂ホールが出来て、ようやく17世紀ごろのドイツの音楽が届くようになったのだ。もちろんスマートフォンなどを持っている人もいるが、感覚的にはまさにのび太君の家に来たドラえもんの秘密道具とか未来道具のようであり、町人が誰かをLINEのひそひそ話で噂を回す程度にしか使われていない感じがしてしまうのだ。まあ、誤解であるとは思うが。


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