説明するべきか、それもどういった順序で何から。
レイプされた女性が犯人を提訴するために自らが処女でないことを明かさなければならなくなるというリスクを背負っているように、ある犯罪を証明するために自らの露悪を含むということがとてもやりづらいのだが、語ろうと思うようになった。
まず、俺はスーファミのスーパーストIIの地域の大会わんぱくこぞう大和郡山店でケンを使って優勝して、CPSファイターという今で言うアケコンつまりゲーセンの台のようなキャンディーステック状の操作レバーと平たく並んだ6ボタンのコントローラを賞品としてもらった。
これを家に持って帰って「大会で優勝してもらってん」と親に報告しても「またいらんもんを家に持って帰ってきて!勉強せい!」「なんや、またなんか買ってきたんか?」と返され、親に説明してもどうせ分かってもらえないと思った俺は一旦家でそのスティックを開封してから、ファミコンランド大和郡山店に中古品として売りにだし、現金に変えた。スーパーストリートファイターIIというのはカプコンの格闘ゲームストリートファイターIIにキャラが増えた再販モノで、既に初代とターボやゲーセン版でやり飽きていたから、優勝もそこまで嬉しいわけでなくその時は当たり前だと思っていたし、それもゲームをする仲間では周知され、しかし家族やゲームショップの人までちゃんと分かっていたのかというと、少なくともわんぱくこぞう大和郡山店の人はその時に俺のことを知って、キャラもケンだと思われたことだろう。
もともと、薄暗いゲームセンターで無類の強さを誇っていたと言ってもスポーツ大会のように学校をあげて地域をあげて戦っているわけではなく、路地裏の喧嘩でひそかに勝っているようなものである。受験でファミコンを取り上げられてから学食費でパンを食ってお釣りを出して帰り際にゲーセンに寄るという暗い生活をしていた俺にとって家族の理解などあるはずもなく、ゲーム機を家に持って帰っても家で好きにできるわけでもなかった。対して、近所のゲーセンに自転車で来ている子供たちや、そこまで厳しくない他校の中高生などは家族公認でゲームをしていて、それなのにゲーセンで勝っている俺は目の敵のように思われていたが、表層的には群れていて仲間意識を少なくとも俺の方は持っていた。あとから裏切られるが。
進学率99%の進学校で学校始まって最初の高卒はファミコンソフト「いっき」で有名なサンソフトに高卒入社したゲームプログラマーの先輩がいるのだが、俺も学校始まって15年目で史上ふたり目の高卒となる。2年バイトして専門学校に進みパソコンを親に買ってもらって、深夜のかけ放題プランでインターネットに接続を始める。ネット初心者の俺はすぐ身バレして、ゲーセンでストリートファイターを一緒に遊ぶ友達がどんどん増えた。中には犯罪者のような人もいて、普通の友だちができないから、ゲーセンを拠り所にパソコンを持った金持ちの家を割り出し、良からぬことを考えていたのだろうと思う。
そのうちのひとりが、俺とやり取りした後に、ファミコンランドに中古として売られていたCPSファイターを買い取って、それを証拠品としてネットで大会優勝者の名を語りだした。
始めは俺はその人のことを「頭のおかしい人」だと思っていたし、オフ会などであったことのある人も警戒心を持っていたが、ネットでその情報だけから誤認する人ももちろんいただろうし、それがその人の属する創価学会の広宣流布という社会参加の出来ない人なりの世界に対する接し方とでも言うか、既に元々持っていた俺との接点を持ちながら、裏切って無かったこととして、なりすまして、そして物的証拠を理由に本人のことを排斥するという作戦なのだ。
結局、わんぱくこぞう大和郡山店もファミコンランドも25年の時を経ると閉店して町並みからは忘れ去られ、商店街の年寄りはいつの間にかひきこもりだった自分の子や孫をいい大学を出ているという風に新参者に自慢している。うちの母親も俺が専門卒で中途採用で入った会社にスーツを着て出勤しているさまを「大学に行ってんねん」と周りに自慢していた。
そこに殺人事件でも起これば警察が来て真相が明かされるかも知れないが、市中の個々人にとって嘘は日常茶飯事で、家どうしは仲が悪く、家族同士の出入りはない。過去は隠される。
この中で、ネットに写真をアップして何らかの自慢をするというのは旧来の人間関係には影響を与えない頭のおかしいことかも知れないが、遠く離れたどこかの誰かをひそかに騙すということに対面の人間関係を築けないものが一定の楽しみを覚えるというようなことが自分にも理解できるようになっていた。
街からは多くの若者が商店街を取り巻く雰囲気に嫌気が差し、親を残して巣立っていった。そうして邪魔者のいなくなった商店街で好きなように噂をまいて悠々自適な老後生活を送ってきた老人が亡くなってゆくまでを俺は何件か見てきた。
この腐りきった関係よりは、他愛のない自慢をしあってゲーセンで一緒にゲームを遊んでいる方がひとときの安息であるという理解をした今、彼の犯した行為も理解できようというもの。
誰が何の動機で素直な心からすると理解不能な世界を構築しているかというのは、自分にもその後ろ暗い罪悪感のようなものがさして初めて理解できる。これがもしかして親鸞の唱えた悪人正機であるなら、悟りの境地と無垢なる善とは相容れないものかも知れないと考えている。