「魔法なんてあるわけがない」と思われているのが丁度よい

俺は魔法を求めて勉強をした。

俺が育ったのは20世紀昭和後期でいわゆる科学の時代。

陳腐な手品は種を明かされ科学の光で人類は真理を得ると多くの人が考えた。 

 

だが、科学はミクロになるほどその分解能で考えられる世界は狭くなり、マクロになるほど政治や経済のように広範な世界を見ているようで細部には行き渡らない。

レオナルド・ヴィンチの時代には一部の人間が広範な学問知識を専有して、衆愚は識字すらままならないという状態があったが、西洋の義務教育が日本にも持ち込まれて日本古来の伝統が科学のミクロやマクロで解剖されるより早く、科学のもたらす力の衝撃によって説明のつかないことが説明がつかないと言うだけで非科学的だと排斥されてしまった。

 

それはさておき、そういう俺はゲーム理論ではストリートファイターIIに必勝法が見つからないという持論を掲げる立場取っている。ジャンケンに必勝法が無いのと同じ理屈であるが、実は人間を深掘りすると人間も何らかのロジックを用いて行動を決定しているので、そのロジックを理解して逆読みすれば手球に取れる時はあると感じたことがある。

だが、ゲームは両者が100円払うものなので店の回し者が店の100円で手玉に取られるようにわざと負けることで勝者に万能感のようなものを抱かせて、実はまわりくどく100円を取っていると考えるようにもなった。この疑念自体もジャンケンのように本当に勝っているのか手玉に取られているのか論理で持って読み解くことは困難だ。

格闘ゲームのコミュニティの中には株主は滅多に居ないがゲーム会社の従業員やゲームセンターの店員もいる。ギルドの表向きの目的はゲームで競い合い攻略法を見つけることだが、利害で考えると従業員や店員はゲームに夢中になってもらうことで現金を得ているので、答えの出ない堂々巡りの枠組みの中で延々と考え試しお金を使ってもらえる状態は好ましく、それを悟られるとコミュニティからそれとなく距離を置かれることとなる。

 

ところで、密教には灌頂(かんじょう)という儀式がある。表向きはカルトのような何らかの信仰を保っているようでいて、条件は未知であるが教徒の中か外からかも分からないが、資格や資質を持っていると教祖から認められたものが秘儀を授かるという仕組みなのだ。

あるのか無いのかも分からない秘儀ではあるが、近頃俺は格闘ゲーマーの中には何らかの俺の及び知るところではない秘儀を持っていると見做している人間がいる。ジャンケンは三つ巴で堂々巡りではあるが、俺も参加するとなると何らかのロジックによって意思を決定するので、無理数のようにイタチごっこで体力を奪い合い、全くの完敗ではないが体力残り首の皮一枚で読み負け、ゲーム中の体力の得失点差で行くと僅差だが、勝ち星の差で大差を付けられることがある。

サイコロでも奇遇に高い出目や低い出目が続くことがあるように、それらは運の差であると説明する手が無いわけではないが、意思決定に関するロジックについて未知の何かがあると捉え、それを究明したいという欲求があるのは隠しきれないところである。

 

論理とは他者に物事を間違いなく説明するための道具であるが、間違いなく伝えられることというのは人間の個体差を超えて共有できる人間の一部分でしか無い。そうなると、非論理は他人には理解不能であるので非論理的な秘儀というものが存在しても論理的に他者に伝わることはない。ではどうすればそれが授かれるか。自分で編み出すか、あるいは言語外の伝達手段で持って観たり聴いたりしてそれを悟るということもあるだろう。

 

願わくば負け惜しみ的に負けの理由を説明する論理ではなく、勝ちを誇る論理を唱えたい。しかしそれらは明かしてしまうと他者に伝わり体得した者同士では再び勝敗を五分五分あるいは運否天賦に近づける性質を持っているだろうから、勝っている以上は運が良かったとか魔法のようなものであるとすることにも一定の論理性はある。そんなものは無いと思われたほうがある意味で好都合な知恵というのが存在するのだ。

 

出来ることなら、ゲーセンで100円玉を払うこと無くその魔術を暴いて体得した後に隠したい。