宝くじは確率的には損それでも何故買うか?

 確率は数学のひとつの分野である。ギャンブルから生まれ、多くはギャンブルに使われる。そして宝くじは基本的に当たり総額より抽選本数の方が多く確率的には買うと損と言われている。では高校で確率を習っていないから騙されて宝くじを買うのか?

 あるとき先輩が宝くじを買う人を笑っていたので俺はこう答えてみた。例えばいつの間にか自分がサラリーマンになっていて、給料から家事費光熱費等計算するとお小遣い1万円あるとする。1万円を貯めると試算は純増するが年間12万10年で120万そして定年まで昇給が無ければ40年で480万。それが宝くじの当たりは6億円。そうなると宝くじを全部買って確率的には損をするとしても、毎月の小遣いの1万円から300円ずつ宝くじを買うと年間貯金が11万6400円。それで当たった場合はその6億円で繰り返し宝くじを買って次の6億を当てる必要はなく、そこで買うのを辞めればいいわけで、確率だけではなく積分や極限なんかも考えると宝くじを買うのもそれはそれでアリだと思います。

 「お前宝くじを売るプロだな」

 ああ、しかしマジックザギャザリングは国内繰り上がりベスト8(実質13位だったはず)までは行ったけどプロには成れんかったなぁ、と思いつつ、MTGも俺はひとつ覚えに確率と言ってしまうけど、足し算から始めて、クリーチャーカードの永続性には小学校くらいでも着目して、それで市中には雑誌がばらまかれチャンピオンデッキが乗るけど、地域のショップを俯瞰的に見るとその地域で遊んでいる人が買い集めた中からウィニーデッキや焼殺デッキで勝ってしまうのが普通で、お買い上げの超レアデッキで地域優勝してプロツアーとか目指してくるのはそれはそれで本の中からまだ出ていない人なのかもなと思うと、俺自身もテクニカルガイドやディープマジックから入ってホビージャパンやギャザに載るのが夢だけど、あの頃やっていた人の間では目立って皆知っていたわけで、つまりはその世界で有名になる効果しかない雑誌で世界に名がとどろくくらいに勘違いしていたよなと思うと、プロツアーではなく地域のパチンコ店で遊ぶこともあったけど、パチスロや競馬は比較的当たりやすいがそれこそ確率的に当たっても期待値的には負けていて統計的にはもっと積算されているわけで、どこで道を間違えたんだろうと思うと既に宝くじの6億には夢を見なくなったのだなと思いなおす。

 んでまあ、確率以前に稲妻とシヴ山のドラゴンではシヴ山のドラゴンが当たりレアという350円のアテモンとしてのMTGの出発点から、何故にプロツアーまで行ったというとバイトで100万くらい貯金があって、親も元気で家でメシが出て、面白いことが無いと嘆いてゲーセンでヴァンパイアハンターというゲームをひたすら遊んで、それで東京まで強い奴を探しに行くようなバカな事をしていた俺をゲーセンで知り合った遊び人グループがMTGに誘ってきてスコスコに負かされて負けじと買ったのだ。

 よく考えると100万くらいあったのに、大会賞金200万円を真に受けて自分なら勝てるとせっかくの手持ちの100万円を大きく取り崩してしまったのだ。

 それもそのはず、宝くじの当たりハズレは連番一致で簡単に確率概算できるが、ルールも覚えたてのMTGをどう数学計算に落とし込んで確率計算するか。そう考えだすと、俺の高校数学が確率に偏っていて、しかも数学を復習した時の微積分のチャートで東大の問題を見たときに三角錐の内接球の最大値を微分法の応用で解く練習問題に東大の過去問が使われてんだけど、どう考えてもその出発点は代数幾何で、しかも確率をデッキの60枚から1枚引く60分の1から良い手札が来るマナカーブにするには数列の極限や積分のような考え方も必要とまでは言わないが頭の片隅にはあって、それをゲームショップにいる子供に先生ぶって教えようとした時に分からない子が出るのもそりゃそうなんだけど、反対にある程度分かる子が出るのは圧倒的にカードを使った実技だからであり、ゲームで遊んでいる子供達にも毎日必勝法を考える頭があって筋良しでだけど教育って劣等生基準か優等生基準か平均値基準か、私学に中学受験合格者を集めて難関大学を狙うエリート教育のはみ出し者のようで、小学校の時は同和教育も受けていて、まだ46歳にして右と左の立ち位置の切り分けや自認すらも甘いなと思うのだ。

 そうするとこのブログでデッキ構築論を自分なりに披露するなら、やっている人のためになるか、まだしていない人への案内広報か、それとも中級者向けか、そうではなく一般論としての純粋数学をトレカに実技として披露する記事なのか、反対にトレカを通して何らかの数学に対するフィードバックがあってそれを伝えたいのか、悩む悩む。

 そしてさらに分かり切っていたことが、トレカの世界での攻略法の常識が新しい数学によって破壊されて刷新されるとしても、まず先にトレカの攻略本の読者の常識をほとんどの人は知らないわけで、こんなおかしな常識があったということを先に入れてから破壊する芸を見せたとして、トレカの世界でハマっていた人には新しくとも広く色々の人に役立つわけでもないし、ともするとカード屋や雑誌社を商売敵にしてしまう。

 そう考えると、トレカのプロは店とも仲良くやっているわけで、商売だから必然的に都合の悪いウソが潜んでいることを許せば、放っておけばよい話になるのである。現代では誰も相手にしない当てものを子供に交じって遊びでひとつ買うならともかく、当たりが入っているかインチキなしか白黒つけたいってそんなの周りの人は黒に決まっていると思っていることをいい歳して白黒見極めるのに数学使うって、使うまでもないってなると、自明の論理を展開する確率統計という数学の分野はその前提から多くの人に拒絶されるものではあると思う。

 しかしそれが常識化しているのもギャンブルがあり確率統計という学問を通してインチキが暴かれた後の世界であるからで、景品をくじ引きで取るアテモンと違ってまずカードが当たってそれを使ってゲームして賞金を狙うとなったMTGの世界に様々のデュエリストがいて、エリート崩れの数学で立ち向かうひとりのキャラではあったなと自信を振り返り、麻雀を飽きるほど遊んだばくち打ちからしたら騙しやすい可愛げのある後進だったのだろうなと、こう俯瞰するわけです。

 そうするとディープマジック以前に自分が何を読んでどう騙されていたのかメタ認知するにはテクニカルガイドあたりから読み直さないといけないなとは思うものの、そもそもトレカは当たりハズレであって、ハズレと思われている弱いカードにも使い道はあるというのが信じるとすなわち負け役になる呪いのようなもので、当たりを並べて勝つという所から出発すると、それでもカードを繰って対決するギャンブルなので、ハズレにもハズレなりに勝ち目のあるゲームになることがあることで、ハズレはハズレであるという命題が完璧主義的には偽となるのである。これが真偽の二値からなる証明題としてMTGを見たときの難しいところで、デッキメイクからゲーム展開まで計算せずともアウトプットの勝率を統計で見ると、使い道があるという詐術となる。勝率が良いわけではない。勝てる確率が微小にあるが、俺はここは当たりカードの方が基本的に高確率に近寄る術になっていると考えている。

 そう考えるとどんなデッキにも勝ち目はあるかを命題として、山が60枚のデッキにはそれよりデッキ枚数の少ないデッキの山札切れか反則負け以外の勝ち方は無く、稲妻と山だけで概算した焼殺デッキの勝率の極大が稲妻40枚山20枚付近のバランスであることも有名な話である。

 このスペル40枚土地20枚というバランスは鉄板で、それが既に参加者の常識なのであるが、地方のショップのプレリリースに行ったりするともらったカードを全部束にして遊んでいるような人もいて、反対にトップ8くらいになってくると大体の戦略は意見が一致するところで、パックの当たりハズレであると済まされることが多い。

 ただ、そこからでも店舗大会が32人中3位入賞で8人トーナメントなら優勝したことは何度もあるんだが、1000人級だと最初の方に書いたように13位で1位の人にはそれなりの努力があるかと言うとぽっと出で勝っている人もちらほらいて。

 それで書こうと思った事のひとつが稲妻40枚山20枚のデッキの稲妻を1枚シヴ山のドラゴンにして、稲妻39枚シヴ山のドラゴン1枚山20枚にすると勝率はどう変化するかって、これ仮想敵にも寄るから一概には言えないかなり難儀な問題なんだけど、そこをドラゴン1枚ではなく鉄爪のオーク1枚にすると多くの人が「強くなる」で合議が取れると思っていて。

 そういう風に、ある種の極論から始めてみて、ちょっとずつ良い方を目指すという事を繰り返してデッキが「育つ」という経験をしてきた俺からすると勝ったデッキを丸真似するというのはされたら嫌だなって思ったんだけど、それはもうゲームの話ではなく人間関係の話でチーム内なら同じデッキで他人は仲間外れみたいな話でもあるから、そこはおおらかになるか反対に敵を敵として憎んで勝負の相手とするかという選択にもなる。

 そう、ブログって誰が読むか分からなくてチームがあって仲間がいて敵とまではいわないものの相手のある人が少し羨ましい。パチ屋にゲーセンにデュエルスペースで敵を買わないと敵のいない平和な日本であることを考えると、ヘイトスピーチでいがみ合う人々がグロテスクでもあるが、傍から見たゲーマーも同じ穴の狢なのかもな。


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