例年7.8.9月は仕事が進まない事が分かっていたが、今年はエアコン完備。その甲斐あってか9月の半ばにはDQ風RPGのOSS開発が9日連続で捗った。
エンジニア転職サービスは退会した。そしてトレカで遊んで、物置を整理した
DQ開発で、ゴチャゴチャした頭の中をシーケンス整理して、そのことがトレカに活き、トレカを考えたことで哲学の難問が何となく整理できたように思う。
ほとんどの哲学は非論理的というか科学以前の考え方で、しかし科学的が絶対かというと科学的に再現可能はつまり被験者から見ていつかと同じ世界が体験されるという事でしかなく、身の回りから元素を取り出し同じ物質を製品として店に並べられた世界では同じ製品を持つと同じ体験が出来て人は平等だと錯覚するが、同じものを持っても体験は人それぞれであろう。そしてその科学的再現は製品を売り与える会社との金銭との交換であって、被験者が自ら選び取ったと思っているその商品はテレビタレントで鳴りたいと思った人の持ち物と同じであったりするだけなのであろう。
しかし観察眼を被験者から、外から被験者を見るものとすると、同じ髪型同じ衣服同じお化粧で誰かと間違えられたら、それはそれで客観的に同じに見える人である。相手の視力とか記憶とか認知が、ちょっと弱くなくてはならないが。
そうすると俺の不機嫌はおおむね思いだされる辛い過去に起因している。家を出る前は厳しい親父が憎悪の対象であったが、世に出るといい顔をして近寄って来てモノを売りつける契約をさせたり借りたものを持ったまま連絡を絶つ人なども後を絶たず、信頼とか安心とか奪われたらなくなるものに永遠を見ようとしていたことに気付く。
いつまでもあると思うな親と金とはいうが、46歳現在同居の親父は元気で別居の母親も多分まだ生きていて、お金にも衣食住の面からは不自由していない。遊びに使うカネと生活費を切り分けることなく、同じ俺のカネであるとしたら100円でもゲーセンに払うのが惜しくなり、そしてゲームカセットは買ったら家に置いておける良いもので、裏切らない友達はいないが、永遠の友情は無くても多少の裏切りが貧富の差とそれぞれの利得に夜のも出あることを理解すると、多少のお金を払えば利害が一致する仲間は幾らでも見つかるような気もしている。
そう考えると、博打であるMTGに「絶対勝て」みたいなのも無理な命令であることは分かるのだが、母と別居になった時に寄り合い所になっていたキューピー堂のおばちゃんの命令であって、原初の俺は姉と母の命令が深層心理にあったが、いつしか遊女に魂を奪われて、それが実家に戻ってから何故か遊びに行くとカウンターに座っているおばちゃんとも話し、喫茶店とかの中年女に心を奪われないと用心して出来た隙にいつの間にかキューピー堂のおばちゃんがいたのである。もうヨボヨボの婆さんだがな。
その意味ではユニオンシステム在籍時の部長も「仕事をくれる人」としての安心感があった。だから関係なくなった今でもその言葉が自分を動かすのだ。つい先日まで労災や年金などお金を取り返す手続きでまだ用事があると思っていたが、それを手放して自分で生きて行こうと思うと、もう命令される関係性では無いのだなと安心する。
そうなると、哲学をもう一度掘り下げることとなる。俺は人の多いところで仲を取り持つような存在でいたが、誰もいなくなると自分で何が出来るだろうとなると飯を炊いてレトルトカレーかせいぜいルーで作るカレーしか料理の出来ない男で、まず直近プログラマーとしてカネを稼いでメシを買うしか腹の足せない奴である。そのためカロリーメイトやウィダーなどの化学的保存食を珍重している、というところまで小学校と同じだが、中高から大学に行ったものは教授に従い、そしてそこから学情などで仕事を得る。その仕事の職場の人間とか職責たとえば建築士なら家を建てるお医者さんなら患者を治すとか、そういう自分の役割を持っている。
そうすると、プログラマーも仕事ではあるが、目の前にパソコンがあってプログラムを組んで、でもそれだけではお金はもらえない。雇われプログラマとして初めてお給料や契約金が出るのだ。だから就職するしかなく斡旋業者を通すと望みの職とも限らず額面的にも中抜きされる。これは業界体質で、多くの日本企業が社内SEではなく外注を使うので、避けがたい。
ではなぜ自分がその道を選んだのか、というような動機の問題から自分を掘り下げなおすのだ。そういう事はスーファミでワールドヒーローズ2を遊んでいたら忘れるが、そうしたゲームに夢中になったことが漠然と同類項で括ったコンピュータ業界への進路の初動ではあるが「似たような業界」というのでは不満になった。
そうすると、ドラクエかストIIそのもの、となった時にストIIは原型たるプログラムを自作して、そしてドラクエも作ろうとした途中のモノをトラブルで失くしていたが、また作ったことで幾分落ち着いた。昔に作ったデータや永年の証拠はないが、また作ったもので認めてもらえないなら、それは相手の哲学がおかしいだけで、俺の哲学はおかしくない。哲学というのは自己を掘り下げるものであって、他人に何かを強要するような人は哲学的では無いのだ。
その意味では、俺はソクラテスの問答も哲学の起こりではあると思うが「自分は何も知らないのではないか?」と内省するのが哲学であって、人に尋ねて「結局何も知らないではないか」という立場を取るのは無知の知とは言えないと思うんだ。
さて、今日で9月も終わり。秋が来たのだろう。また読書でもするか。