そもそも哲学というやつがおかしいのではないか

 世の中、分からない事は素直に分からないと認めるべきである。

 「足の裏に影はあるか」という哲学書が流行ったことがあり、書店に並べられていた。その頃は俺はプログラマーとして技術書を買いに書店に通っていて、その本の中身は気になるが、仕事とプログラムの勉強が必要だと本は買わずに「足の裏に影はあるか」という題名通りの問いをずっと考えていた。

 SNSのポストでも触れたが「足の裏に影はあるか」は哲学のようで、基本的な単語である足と影については全く疑わない立場で出発している。足と言うと人の足。それ以外は考えないのだろう。そこを疑うと、脚と足の違いや節足動物や昆虫などの足も足であるのかとか、近年に活躍するロボットにも足のあるものがあり、およそ動体を支えて棒状でモノを運ぶと足なのだ。影も光を光として何ら疑わない哲学観の中での視覚現象のひとつである。光の当たらない暗いところという事だ。

 そこでもう一度考えると、足の裏は大抵の角度では見えない。だから影があるか無いかは視認できないところの問題である。足の裏にファイバースコープを突っ込むと恐らく暗いだろう。だがファイバースコープのような技術があるなら靴底が光る靴もあるかもしれない。およそ、そういう仕掛けを使わないとしたら、影はあるんだろうけど、視認できないから「分からない」とするしかない「あるんだろう」も「ある」とは言い切れない言い回しになる。

 そうなると、哲学の父ソクラテスの「悪法も法」を疑うべきではないかと考えた。確かに言いたいことは分かる。生きているとそんなん法律の方がおかしいんちゃうかと思うことはある。だが、善悪を考えたときにその定義として法が作られたという順序を考えると、法を守ることが善なのだ。

 とすると親鸞悪人正機についても解ける。世は善なる法で守られているから、法に触れない範囲でしか物事が進まないとすると、法に触れない範囲の制約の中では起こらない事もあるであろうが、法を犯す悪行をしてみると広がる世界があり、しかしそれは善からは外れていても事実として起こるわけなら、なんら仏法つまり現代風に言うと物理学には反さないわけである。でも法には触れているわけだが、その法は仏法ではなく五カ条の御誓文とか、時代の法であるわけで、仏教徒として仏の教えに従い時代の法に背くこととなる。

 でも俺は親鸞もメシ食う時に殺生はしていたんじゃないかと思うよ。

 まあ、あんまりカッコ良いこと書いて皆が「なるほど」となると嫉妬を買ってやがて律法を守るものにキリストのように処刑されるかもしれないから、俺はキリスト教では無いけど聖書は読んだので、それはそれで教訓としてこのへんで辞めとく。

 だいたい、法が善の規範であると言いながら、六法全書を読破することは敵わなかった。重くて紙が薄くて量が多くて持ち上げてペラペラめくったら腕が疲れて、本棚に戻してほとんど読まないまま物置にしまったような本なんだ。

 取り決めであることは分かっても、その全部を理解以前に通読することすら難しい。お笑い芸人「明石家さんま」が「俺しゃべりが上手いから弁護士が向いてると言われたけどアレ、法律の何条がどうこうというわけでそれに基づいてしゃべらなアカンらしいわ。俺アホやから無理やわ」とテレビで話していて、その時は笑ったが自分でもやってみようとすると、やはりその通り俺も無理だった。

 分からない事は分からない。哲学というのは、それに対して分かろうとする科学実験のような行為以前に分からない事は理屈をこね回せば分かるのではないかという学問領域であり、分からない事を素直に認めることが哲学の出口で、見ても聞いても触っても食べても嗅いでも分からない事に対して分かろうとしたり分かったふりをするその姿勢がそもそも間違っているというのが俺の結論なのだ。

 だが、俺は哲学に多くの時間を割いてしまったし、コンピュータ科学でも出来上がっているコンピュータで上でのプログラミング、ソフトウェア工学を浅いレベルでグルグルと考えた時間が異様に長い。下手な考え休むに似たりで、46歳まで来てから、そういや分からない事まだまだあるなぁ、とため息をついたところで、残りの人生逃げ切れるか。どこかで野垂れ死ぬか、カネと仕事をどうにかして生きながらえるか。

 特に欧州圏では哲学は「若いうちに誰しも一度はハマるもの」と聞いたことがあり、それがそういわれるゆえんも日本の学校教育の模範が西洋のそれであったように、座学でもって世界を知ってから仕事を探すという順序と体系の中で誰しもがそうせねばならない業を背負っている社会なのであろう。

 むずかしい勉強、わかんね!の図。


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