アナログ固定電話2025年終了にウェブの未来を思う

プログラマーって10年残るかどうか怪しい仕事で建築とかは残るって設計事務所勤務の時に先輩が話していた。
人の寿命より建築のが寿命がないがいのかなってそん時は何となくしか分からなかった。自分の持ち場がプログラマーだったから。そんでまあ、建築に関わったわけだから新建築とか読んでみたり、サグラダ・ファミリアとかあれって建築か彫刻かどっちがろって考えたりもした。そして最近では彫刻として人の形を取っているものは長く残っているし、ピラミッドやスフィンクスなんか随分と残っているけど聖書が出エジプト記から人間史を綴っているのって、素直に読むと我々はエジプトの奴隷から続いている一族であるってなるかもだけど、ひねくれてくると「あれ、俺が作ってん!」と自分が作っても居ないことを自慢する子供のイタズラの強化版に思えたりして、そこらへんの智慧の集大成があるとしたら宗教や教育は嘘を教えて支配者の権威を強めつつ勤労に喜びを覚えさせる奴隷道徳であり、その洗脳から脱したときにスッカラカンではなく二重にひねくれて素直に振る舞うようになったら、あとはもう何周回るかの堂々巡りで答えなんてその時々じゃないのかと思えたら、自分の智慧は充分に書物なり何なりで誰かが暗に伝えたことそのものである気がしたんだよな。聖書や教科書が洗脳のために書かれたものならお経や禁書はいっぺんの真理を説いていると言うか。
まあ、全てを知るには程遠いけど子供の頃の好奇心と比べたら今で充分って思えるってか。そんでブログとか書いて残してたのも墓石みたいなもんでなにか残したいっって気持ちと、読んでる人にちょっと楽しんで欲しいって気持ちを両面あるけど、なんかこのウェブに残すみたいのもやがては通信の形とかが変わっていって無くなるのかなとふと思った時に、そんなに自己保存の欲求を強めなくても人が世界中に繁殖してその営みを豊かにしようとしている現代社会の思想みたいなものに俺は俺なりに一石を投じた手応えみたいのは残ってる。
コンピュータがトランジスタひとつだけでは意味を成さないように、回路であっても使う人がいないと意味を成さないように、俺も社会との関係性がないと意味をなさない思想のようなものを持っていて、誰とも関係性を持たない個人なんてものは有り得ないわけで無人島に島流しされたとしてその人の中にその人を生んだ両親とか追いやった人という過去はあるわけだし、ひととき孤独を求めてもそれは活動と睡眠があるように人が人であるために他者を拒絶する時間がないと押し競饅頭の真ん中の人は液体が容器の形になるがごとく他者の形がその人の形になるというか、人が何人かいると「気ぃ使い」で自分を押し殺す人がいて、その行き過ぎた形が自殺なんだよな。
つまり生命が尊重される以上は何かを残して自殺して作品が有名になる人とかは生き残った人から作品としての価値としか認められない人生だったわけで、自分の人生をそんな風にはしたくないと思うようになった時点で変な宗教には騙されていない思想があるわけで。
まあ、その思想って特別なものでなく勉強して生活して悩んで年食った人間の普通の考え方で、そういう人はいっぱいいて、いっぱいいるわけだから特段この人が死んだら困ると思っている人もどう困るかと言うと寂しいくらいのものである友人であって、食わしている子供がいるわけでもなく、能動的に世話している人間がいなくてどこかに利用している人がいてその人が多少困っても主観的には無関係なわけだから。俺のブログは「もう、これ残して死にます」ではなく「何か暇だから書くけどあんた読むの?」というスタイルでナンセンスとして続けるだろうし、今日は朝ごはんのパンがないからカステラといちじく食ってアイスコーヒー飲んだら気持ち悪かった。
固定電話が無くなって光と無線に置き換わる頃には俺のブログのアクセスもゼロになってるかもな。統計取ると、古い記事は読まれなくなって検索にかかるところだけ読んでそこからトップページなどにリンクを辿る人も珍しく、ニュースなどの時事ネタではなくても格闘ゲームもカードゲームも20世紀後半から21世紀初等の時事ネタだろうからね。建築が残っていると言うよりは建築を褒める文化が20世紀の日本に西洋文化が入ったことで隔世遺伝したようなもんだと思うんですよ。
奈良に住んでると遠方から友人が訪ねてきたときくらいしか大仏さんも参らないという。そういうことだと思うんですよね。


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