嘘松案件について嘘を見抜いても本当は分からないという話

言葉でものを考える、人と話をして情報を集めている。

そういった生活からは「あの人はああいった」「この人はこういった」しか分からない。

あるいは文字や文章で「本にこう書いてあった」「ネットで見た」しか分からない。

そういう時に使えるのが論理学で、つまり「見聞きしたことの辻褄が合うか」ということ。

これで分かるのは「辻褄が合わない時に、どちらか一方が嘘かもしれない」ということ。

うそが分かると、反対のことは本当かというと、そうでない場合もある。

ひっくり返しのうそは実は本当に近く、でたらめがタチが悪い。

 

人というのは感覚で捉えたものを考えて処理して言葉にしていく。

それが手品のようなものを見て騙されている人が素直に発した言葉なら。

そういう人為がはさみこまれない自然との対話なら、全部が本当だろうか。

自然界にも狐の嫁入りのような現象や擬態する生物に見えない細菌もある。

 

自然科学だけが正しいという論理の成り立ちは人がうそをつくからだが、ではその自然科学の無力さを昨今のコロナウィルス騒動に見てしまうかも知れない。

哲学的に考えると、俺はもとから部屋で過ごしているのでテレビがウソかもしれない。

多くの時間をネットやテレビに使っている。俺とて本当のことなど何ひとつ分からないのではないだろうか。テレビで見て、ネットで見て、本で読んで、話をして、無数のつじつまの合わないことにぶつかりながらも「あれもウソでこれもウソだ」と叫んでみても、みなは「そういう風に見えるけど」という話に落ち着いてしまう。

なんとなく感じる無力感ではあるが、それはブログというオウンドメディアの発信基地を持つ俺に対して多くネットの読み専用の人が「信じてたまるか!」と憤慨して、何とか発信しているSNSなどが敵意に見えるだけなのかも知れない。

俺を嘘松だと言う人は少なくともいくつかの記事を読み、その論理的整合性を疑っている。俺にも誤解や間違いは気づかないだけ無数にあるだろう。

神を信じようが仏を信じようが、宗教が本当はウソでも信心している人の生活が成り立っていれば大きな問題ではない。それがもっと特定しづらい社会規範や道徳観で成り立っているなら、反社会的なものが迷惑なのも分からないではない。

そういう意味では自然科学よりウソである宗教を皆が信じているという状態のほうが秩序があり、真理を説くのと秩序を説く対立の中で真理のために命を賭ける覚悟があるのか。

ただ、よく考えると説く前に自分の主義信条が真理を理解できていると言い切れるかと言うと、まだまだ迷いはたくさん残っているのだ。今日はそれに気付いた日。


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