真理とは自然科学で人文は人間の利得のために自然科学を利用する立場で真理追求の立場をとるのではなく悪である、みたいな持論を唱えようとしてたんだけど。
だけど、の続きは自然界の中で人間こそが特別であり人間を定義してそれが生き残り繁栄するためにこそ知恵が意味を成すみたいな立場は誰かがどこかで誇示しないと自然でいいなら人間なんていなくなってトカゲばっかりになるとかジャガイモ畑だけが残るとか人間より縄文杉のほうが偉いとか、そういう話になった時にそれでも人は個としての意味を見失わずに生きて行けるか、みたいなこと。
もちろん人間より縄文杉のが偉いって思想の人が居るのは知っているしそれを敵視して糾弾したいわけではないけど、人間より縄文杉のが偉いみたいな話を俺は活字で読んだので活版印刷とかの文明の恩恵なしにはその言葉は遠く離れた俺のところには届いていないと思うのね。
それが今やパソコン、スマホ、ネット、無線技術だとは考えられないか。便利すぎて麻痺するけどさ。善悪を規定するのは人間だという論理も唱える本人は善なり悪なりから出てきた言語体系と論理学の上に立脚してルールに則った反論で持ってジンテーゼを模索しているのであって、決して自然回帰がゴールとはならないのではないかと考えられるのよね。
東洋思想というか、俺は奈良県民なので周囲の思想はどこか大仏さんから仏教をルーツにしている部分があって、神道のように自然ルーツのものでも文明に依っている部分はあるし、両方祀っているのが八幡神社なんだけど、もうついでにキリストさまでもマリア様でも一緒に祀ってしまって人間偉いで良いんじゃねぇのかって最近は思ってる。