何だか今までのモノの考え方が全部間違っていた気がした。
と言っても、腹が減った時にメシを食って生き延びてきたので、睡眠障害みたいのがある以外はある程度は生きるために合った選択をしてきたから今も生きているのだろう。
ただ、ものの考え方はやたらふらふらとしていて、哲学のように現象を疑ってみるものの、かといって掘り下げた分だけ根がしっかりしているかというとそうでもない。
人間は自然界に於いて葦のように弱い生き物である。しかし人間は考える葦である。
パスカルの名言を疑ってみると、人間は虫や草花よりは強いようにも思える。
それが農家の人によると殺虫剤や芝刈り機があってはじめて勝てるだけで人間は草や虫より弱いかもよ、ということも出来る。そうすると、草が案外強いわけで葦のように弱いという命題もまた成り立たなくなってしまうのであった。
そういうふうに思想とは神がいなiいと出発点も無いふらふらとしたものだろう。悪があるから善がある。そういう風に対立があるから思想が芽生えていくのだ。戦争があるから平和を願うのだろう。そのへんは俺の読書量が少ないから今更に思うのであって、よく勉強している人にはあるいは当たり前なのかもしれない。
つまり俺は子供時代から団塊世代に比べてたぶんそこそこ幸福だったのだが、不幸な体験もあったおかげでそれを無くせば幸福になれるという風に考えてきたのだ。いつも過去の不幸を呪って生きてきた。しかし、比較対象を現実の人間にとってみると案外と幸福なのだ。個々人が幸福追求する自由社会においてそのバロメータはカネでありそこそこにカネのある家の生まれだったわけで。
ただ、そこに公平という物差しが持ち込まれ、そこそこ幸福であることを人並みまで減らせてやろうというような圧力と戦ってきたこともまた事実なのだ。
その戦いは俺の幸福量が減ることではなく人並みが俺並になることで解消されるというのが俺が働く上でのひとつの思想であったわけだが、それは単なるインフレ政策に過ぎない。バロメータであるカネの総量を増やしたら、物価を上げて取り返すしかない。
俺は朝食をパンにするタイプだが、皆がパンを食うと小麦の消費量が上がり輸入が増え国益が損なわれる。だからといってご飯と味噌汁に出来ないのは俺の怠惰でもあるがお母さんがいないこともあり、かといってお母さんがいると解決かというと男女格差とかにもまた頭を悩ませられる。退屈だから、放っておいても良い問題をいちいち考えてしまうのだ。
悩みの種は対等に付き合える友達が出来なかったことだが、浮いたカネがあったときには周りに多くの人がいた。対等かどうかは分からないが、ネットでこうしてモノを書く上で文通というほどでも無いが言葉を交わす人は増え、境遇は違えどみな何か生活があってモノを考え文字を起こしている。その多くは社交辞令や挨拶のようなものだ。
そこからほんの少しだけ、みな好きな創作物への思いを挙げる。知っているもの、知らないもの、教えてもらったら自分も読んでみようと思うもの、いいやと拒否するもの。それらは皆退屈を有意義にするために書かれたモノだろう。
作品を深く味わえないがために共通の話題がなく孤独感を味わうのかもしれないが、深く味わった数少ない作品には嗜好の偏りがあり理解者もいない。自分の世界だから。
そこでいう「間違ってきた」は共感と相槌の見分けというか、本音の読み違いだ。
みな革命などしなくても為政者の側に守られているし、かといって守ってもらえる保護者に不満を抱いて対立思想を持っている。子供が出来た人は変わったかというと団塊の子育てと違って政治に甘えた孫育てなわけで。俺も子供の頃は爺さん婆さんに可愛がられた孫だった。
そうすると、人並みの幸福量を俺並にするという俺の思想は子供のいるよその家庭に於いて満たされ始めていると考えることも出来るが、ウチは独身だ。あとは俺が結婚出来たら、何も問題がないのではなく俺が子育てに囚われて独身貴族の自由は無くなる。
そのように全ては俺がラクということとのトレードであったのだろう。しんどい目を見ると「頑張ったのに」という後悔以外とのトレードは起こらない。
頑張って何かに取り組むのが仕事なのではなく自然との闘いを省力化するための文明なのであろうな。そうして退屈になった社会で人間同士が争っているのだ。巻き込まれるだけ無駄な争いなのだろうが、自分も社会に生かされている上は自分の属する社会だけは守らなくてはならない。その中での戦い方が合っているか間違っているかは他者が決めるのだろう。
まあ、俺の頭の中のどこかで何かが合ってて何かが間違ってても体は生きてる。