最大多数の最大幸福を数量的に捕まえる

最大多数の最大幸福は指標的な幸福量を人数で割ることで多くの矛盾を生むとして既に論破されているかに見える。だがこれは厳密な意味で論破されたというよりも幸福を数量的に捉える以前に幸福は数量であるとすると有限であり専有するか分譲するかで量の大小が偏るというような話でしか無く、政治思想的な多数の幸福を否定するものではないと俺は考える。

例えばになるが、幸福を年収とかの数的指標で計るのは理系的でなく、まずカロリーで冷暖房と衣食で考えてみたい。人間が幸福になるのに熱は必要だからだ。暑すぎると冷やしたいが。

次に睡眠時間などの健康管理だろう。病は不幸だ。戦時中には病気のせいで兵役を免れたという話があるが、これは病が幸福なのではなく比較的に戦死のほうが不幸ではないかと俺は考えるのだが、思想的に配色濃厚な昔の日本では戦死が二階級特進の栄誉であった。この辺の話はもう生命倫理の問題で、幸福感とはズレてこの切り口だけで話が終わらなくなりそうなので、病は健康より不幸で人間は健康な時に幸福を感じると強引に決定して進みたいところではあるが、答えが出ない以上はまだ命題に健康と幸福の関係を考える以前に健康の定義が世界保健機構あたりが決定した定義で絶対値的な指標ではないことから、保留する。

病気にしても熱の問題は必要で冷え切ってしまった人間が死または仮死状態であることは疑いようがない。だが、仮死なら冷凍睡眠して科学技術がもっと発展してから寿命というか細胞分裂の発生する生命活動をしたほうが幸福かもしれないと思うと、平易に生きることが幸福とは言い切れないかも知れないが、それくらいまで来るとじゃあその冷解凍は誰が何のために行うのかとすると、そこまでの極論はこの際議論から外すべきだと思う。じゃあ書くなと思ってしまうが何をどういう順序で考えたのか残すためにログとする。

つまりだ、特殊な条件で閾値を超えて幸福量の計算が局所的にずれることは有りうるが、それを無視して多数の生存とか繁殖を実現して、そして繁殖したものが互いに殺し合いではなく助け合う格好で個人的な幸福感という計り難い指標をなんとか計って高め合うことは出来ないかと。数学的に矛盾するという論理は未だ計れていない幸福度が一元的な数量で不可分であるというところに立脚しているので、これとても月並みだけど私有財産の否定という文化大革命的な極左思考ではなく、公有財産もしくは共有財産の肯定という建設的な方向なら話は前に向いて進むと考える。

めちゃめちゃ簡単な話にすると、風呂とトイレは家族で共有みたいな話に個人トイレ禁止とか言っても始まらないだろうみたいな。全員トイレ完備はワンルームマンションの現代建築で常識化しているし。

また、幸福が数量的でないというのも、最初に言ったように年収という指標でも会計としてそのお金を何に使ったかには多様性が実存して、必ずしも大きな金額が大きな幸福ではないと俺が主張するのは世の中商売であって、等価交換的に年収と幸福価値が比例するわけではなく、支出面とのコスト対効果が獲得幸福量と正比例的ではないことも挙げられる。

つまり俺の昔の冗談の「年収が1000万を超えると寿司が止まって見える」というやつで、普通庶民はチェーン店とかの回転寿司で寿司を食い、金持ちになると銀座でカウンターの寿司を食うことを動体視力が高いパチプロがスロットマシンを読み切ってピタリと当てる「止まって見える」という表現にかけて、年収が高くなると寿司が止まって見えると掛けたら意味が分からなすぎて聞いた人が爆笑したんだけど、ネットで広まって分かった人が画面越しに爆笑したという。

その意味で、俺はネットで実名公表しているせいか、田舎町での素行のせいか大衆食堂的なところに行くと人の噂が自分に当てられている気がしてクラクラくる自律神経失調症みたいな状態になっているので、家族で寿司を食べに行くでも一人分だけお持ち帰りにしてもらって家で食べるんですけど、この回転寿司のお持ち帰りのお寿司がスーパーの夕方の賞味期限ギリギリのお寿司より鮮度が高くて、おうちで子供の頃に出前を取っていたような商店街の豪商の贅沢がとても小市民的になったなと思った時、回転寿司もカウンターの止まったお寿司も、まあ確かにちょっとの味の差はあるかもだけど、値段に正比例的に高いほうが三倍美味しいみたいな話では無いと考えていただくんですよね。充分美味しいんです。サラリーマン時代に見栄張ってたというかランクアップしたいと思って挑んだ新地のお寿司と思い出し比べても。

ただまあ、分からないのは和食店を経営する料理人と回転寿司のアルバイトの幸福量の差ですよね。そこに切り込まないで、受身的にみんなどんどん幸福量が増えている世の中だと思ってしまうと、気づかないところで悲鳴を上げている人もいるかもしれない。

そういう風に体験的に考えていくと、古いアカデミックの哲学的とか論理的な最大幸福の割り出し方ではなく、もうちょっと実生活的な落とし所は見えてくるのかなと思うんです。

ここは論考して、こう考えたとか筋道立てての話ではなく、漠然と「思う」この感じが世の中良い方にってのは少なくとも俺の幸福量をそんなに減らさないで波及的にみんな同じようなことが体験できる世の中に変容してきてるんじゃないかと「思う」んですよ。

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