最近は勉強のし過ぎでブログがつまらなくなっているのかなと

まだまだ勉強不足だというお叱りはあるかとは思いますが、俺のブログって19歳の時に「大学落ちた」から始まって、「ゲームしようぜ」ってので10年くらい引っ張ったんですよね。

ただ、黙って電車乗って通勤を続けていれば学歴は隠せたかなとは思うんです。いっかい大学落ちたけど、就職した頃には挽回するくらい勉強したと思っていたから、あの頃は特に引け目には感じていなかった。

その絵に描いたような普通のサラリーマン像というのは、ドラマティックな大逆転とか矢沢永吉的な「成り上がり」ではなく、ちょっと大学より低く見られる専門学校ってとこに行って、まあ無難なレールに復帰した程度で、そして金髪にブリーチした頭もいっかい丸めて生え揃った時にはもうそんな過去を知る人は僅かだったんです。写真とかもあんま残してなかったし。

振り返ると、大学に落ちたから地べたを這いつくばるように生きてきたなんてのは思い込みで、普通に勉強して並の成績で私大に行ったやつと、勉強量とかもそこまで変わらなかったかもしれない。時代の寵児と言われた東大卒の堀江貴文さんも東大生の中では普通で、東大の中でもトップというわけでもなく、会社が上手いこと行ってマスコミに叩かれて犯罪者になってしまったという。

俺と堀江さんとは違うけど、ただ上手く行っていることが人目について引きずり降ろされたと言ったほうが良いのかもしれません。面白がるのは俺の周りにいた人だけで、俺と直接関係ない人がブログでうまい飯の写真撮って他の会社の社長さんとランチに行ったとか、テレビゲームの最新式を買って遊んでいるとか、ジャニーズ事務所手越祐也さんがアイドルが発売日にPS5を買って開封してすぐ飽きた動画を公表して嫌味に見えるということを今の俺から見て、昔の俺もそういう風に嫌味だったんだろうなと振り返ったわけです。

実名公表してから4年経つのですが、匿名でやっていたのが身バレして叩き降ろされるまでの間はネットに書き込むことが明るい未来像を伴ったものだったんですよ。もっと面白くなると思ってた。ただ、実名にしてから、もはや自白強要をされた被疑者のように語ってきた部分もあって。

つまり何か悪いことをしてしまったらしいけど、自分には罪の意識がなく、あれですかこれですかと言っている内に俺はこんな悪いことをしてしまったのだという精神構造になったんです。

その間に外は春風が吹いて若干温かくなってきたようです。なんかここ数年でいちばん穏やかに迎えられそうな春を感じています。テレビで見た冤罪弁護のドラマと、そこに流れるKINGNUの「白日」の「真っさらに生まれ変わって人生イチから始めようが首の皮一枚繋がって地続きの今を生きてるんだ」という歌詞に、どこかで捨てようとした過去があることの自覚を持ちなおしたんですよね。

サラリーマンになる俺ってのは塗り替えられた俺だったんですよ。今、俺は本当に過去の俺の記憶に自分で吐いたウソで蓋をしたような生き方でなく、素の俺だと思うんです。

ブログってのは誰でも読める。そして大学とか会社ってのは入門証が必要で、外からは勉強とか仕事してるみたいでも、まあ真面目な人もいれば遊んでるやつもいる。だから外から中で何やってるのか得体の知れない結界の中で、信仰心というか買いかぶるように見てた人からそれが見えた時に「なんだよコンチクショウ!」という怒りのエネルギーがぶつけられた、そんな記録だったと思うんですよね。

それに安心して、一緒に遊ぼうと寄ってきた人も現実には多かったんです。だけど、それが代表みたいになった時に真面目にやってる人が報われないって不満感も同時にどこかで爆発したんだと思うんですよね。

まだその思いはぶつかり合っていて、どんな結果を生んでいくか、因果の流れの中にいるんですよ。

その中で悔い改めて真面目に勉強しようと改心した俺みたいなのも多分嘘つきで、やらなきゃいけないことを見極めて必要なことをすれば、愚直に頑張り続けなくても遊んだり寝る時間くらいの自由はあって良いんじゃないかというのがもともとの意見だったんです。

ただ、勉強するならするでゲームするなら遊ぶんじゃなくてプロゲーマーのときどさんとか野球のイチローさんくらい頑張れって信じて応援してくれる人もいれば、やってる側から誰かが頑張りすぎると他が頑張り足りないみたいに見えるから適度に肩の力抜いてやって欲しいという意見に分かれたりもするんですよ。

まあ苦しいのはこうして実名公表しているからか、観察対象になってしまったということに起因すると思うんです。透明人間でありたいって気持ちが匿名のウェブにはあるんです。