国語の例解

 子供の頃、難しい本を読んで背伸びするのが勉強の早道みたいに思ってた。そして躊躇するとか、葛藤するとか、漢字にするとかっこいい文字を見て育った。

 大学受験は失敗したが、受験を舐めている以上に大学という組織と学歴社会という大人の決まりごとがそんなの誰しも社会をくまなく知っているわけではないから、幻想で現実社会はそうではないだろうという風にも考えていた。自分は賢いから、やっていけると訳のない自信があった。

 フリーターをして金を貯めて飽きて辞めて家でテレビゲームばかりしていた。親の勧めで専門学校に行ったが、遠慮して授業料が一番安い学校を選んだ。行った結果は大したことは学べなかったように感じたが、それでも今思うと知らない子と雲泥の差がつくことだとも思う。

 パソコンはNECのPC98が普及の上り坂の初めで、学校で勉強している時点でパソコン通信から使っている界隈からは時代遅れの感はあった。トランジスタ回路から電子計算機にパーソナルコンピュータが普及して、今更何を学ぶのだという事で、出来ているパソコンを基礎理論から学びなおす事に無意味だとする人も多かった。だが、持っていない人はもっと多く、少なくとも持って使い方が分かる時点で下駄履き状態であり、恵まれていると思う。

 何となく入ったゲーム会社のバイトを辞め、中途採用で就職して仕事はすぐに覚えた。良いように利用されているに過ぎないが、競走馬か騎手に例えるとまあ勝ち馬だったと思う。その時は社会の仕組みを解き明かそうなどとは考えず、大学に行ったらもっと良いことが学べただろうかと大学に興味を持ち始めた。通勤電車で読んでいた小説に大学がカッコよく描かれていたのもそれを手伝った。

 俺はスパイ行為をして大学の教科書を買って集めた。そして東大工学部理科I類の教授の著書も読み始めた。それらは驚くほど簡単でつまらなく思えた。苦労して受験して大学に通っても教えてもらえることはこんなにつまらないかと思うほど。

 そんな俺の目の前に1冊の単行本が現れた。同じく東大の医学部の先生が書いたまあ今にして思えばくだらない本だ。本の内容は心理学を実例に当てはめて使う話だが、俺はその本によって大変な深層心理への攻撃を受けることとなる。「東大生の価値は東大の授業にあるのではなく厳しい受験の競争を経ることで勝ち抜くために猛勉強した高校生活にある」要約するとそんなところか。

 確かに、IT業界が特殊で学歴不問だったのも相まって、学歴が段々と意味を失いつつある時代だった。実際問題として大卒が就職できない就職氷河期世代だし、博士になっても仕事がないポスドク問題も実際であろう。そして運良く入った件のIT業界はパソコンでプログラムを組んでおいたら放っていても動くので皆タバコを吸って雑談しているだけでくだらなかった。

 俺が大学に興味を持ち始めたのは暇だったからだが、仕事は仕事で何もかもをオートメーションにすれば労働から解放されると安易に考えた俺は先にも書いたが馬としてはよく働いたと思う。どんどん課題をプログラムで解決して給料は時代にそぐわず右肩上がりだった(注釈:今は年金暮らして収入は少ない)

 もらった給料を金に糸目はつけずにバンバン使う俺は色々な人を敵に回し、ついに俺が専門卒で大学をスパイしていることを逆手にとって大学を上位とした学歴社会の言説が書店を東大一色に染めた(それは俺が東大卒の人が書いた本を買うからなのであるが)

 だが、先に書いたように東大は東大にある情報が授業や図書館にあるものではなく受験に勝った人が勉強して持ち寄った知識の総体とでもいうか、そうなら俺は俺が勝っているなら俺も情報処理技術者なので俺の知識があり、相手の狙い目は俺の情報とカネなのである。

 会社はICロックなどでセキュリティはあるが、出てきたところから俺を追うとゲーセンに行って格闘ゲームで遊んでいて、読んでいたのはアルカディアというゲーム雑誌。9.11テロの首謀者がアルカイダなんていうのは多分に冗談で、パイロットも討ち死にで誰が首謀者かわからないと被害遺族が安心しないのでメディアが流したデマかもしれないよなと思ったけど、その時はアルカイダアルカディアが耳から聞くと混同しがちで自分たちが怖がられることになるというところまで想像は及ばなかった。

 少し話が逸れたが、まあ大学の本を読んでも背伸びどころか高校の学参より簡単に思えるのは有名国公立はともかく大学が増えて大学生の総数が増え高校の勉強が足りない大学生にものを教えるには教科書を易しくする必要があるという大学の教職の苦肉の策であって、勉強する気があったら活字の本を買う珍しい若手会社員向けにレベルにあった本がどんどん出版されて、しまいに俺は読書家としてまあまあの教養を身につけた。

 それは大学のシラバスと違って、知りたいことを知っている先生に尋ねて自分が満足するレベルの情報を教科書や授業や論文形式ではなく、一般書籍で教えてもらっただけなのだ。

 やがて、色々の会社が集まってもつれたプログラムコードは整理されて行き、糸が解けるように業務が効率化され、その中心にはコンピュータが祀られた。小説よりも技術書はよく読んだが、マサチューセッツ工科大学の教科書よりもシャープ株式会社の社内文書の方が理路整然としていて読みやすいと思った。

 ここへきて、改めて暇なのでまだ高校の受験勉強を続ける。数学の基礎解析は既に廃止され、現在では数Iとか数IIとかになっていて、多分だけど昔より理解しやすくなっているだろう。受験とは何だったのか。あれは勉強がどうこうというより「大学に入れば人生勝ちである」と思われた時代の混沌が巻き起こした無意味な競争だったのではないだろうか。

 数学でも問題は難しくとも、解は簡潔なものが好まれる。そして数学や論理学を履修した人の頭は難解な古典と違って、案外とシンプルなのだ。もつれた考えを紐解いて、答えへの道筋として他人に記すからだろう。

 ところで俺は辞書を引く。葛藤とは複雑な悩みの事であり、現代文で示される基本的なテーマだ。葛藤と引くと同じような悩みの意味が記されている。では「葛」とは「藤」とは。

 それらは藤の蔦が自然に何かにまとわりついて絡み合っている様を絵的に記すことで人の悩みが絡まっていることを例える言葉であったのだろう。

 解けてしまうと、まるで何事も無かったかのようである。


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