「あんたは落ちたんや」
近所のクリーニング屋のおばあさんは俺の態度が気にくわない時そう言う。
姉も言う。親父も言う。俺は既に精神的な負傷で病人である。姪も言う。
「通った」
誰かがおだてて何か得をした時に言う。
俺は東京商船大学には落ちているが、サンタックコンピュータ専門学校には通っている。
そして高校の時にはコンピュータの勉強がしたいと学部学科を探したが見つからなかった。
大学に落ちても専門学校で資格を取り、アルバイトから正社員登用となった小さなゲーム会社を辞めてしばらく遊んでから職安で資格を持っていることを明かすと近所の会社にすぐに就職が決まり谷町六丁目のソフトハウスに出向が決まった。カネがなかったので給料を前借りして通勤定期を買い、母親に弁当を作ってもらって毎朝出勤した。尻に火が付いていた。
スーツを着て息子が出ていく様を両親は近所に「大学に行っている」と言った。就職氷河期で専門学校というのも社会認知されず、企業内定の仕組みなど商店街の人間と都市部の会社員には互いに秘密のことがたくさんあった。それらすべて周囲の人間は知りたがり、隠すために親がうまく騙してくれていたのだが、俺は嘘はつきたくなくて面倒だと思っていた。
ソフトハウスは広島大学と内通しており、マイクロソフトの技術文書が郵送で届く。今でこそネットで無料で読めるが、当時は英語で機密文書であった。大した機密でもないが、ソフトウェアの取引価格などは現在でも要見積もりで公表はされていない。推定5000万円である。
月給14万のゲーム会社から月給17万で決めた会社だが、振り返ると学生時代にマイクロソフトのVisualC++AcademicPackをバイト代で買い、独学で勉強した俺の知識は会社で高い評価を得て3年で月給25万円まで昇給した。若いのにもらいすぎだと他業種から妬まれたのは俺の使い方がランチに居酒屋の魚料理などを食べる金遣いの荒さからだった。
会社経営部から「大卒が22万なのに専門卒でこの金額か大卒が3人買えるんだぞ!」という怒号が部長の携帯から聞こえた。芝居でないとすると俺の月給は25万だったがソフトハウスから所属会社に出ている単価は月66万以上なのかもしれない。この辺の金額も詳細不明だが、所属会社の社長は毎日盛り場で女遊びだという噂も聞いた。接待なども受けた。
そしてソフトハウスに大卒が3人来た。しかしVBができる程度でVCの知識があるわけではなく、関連会社が育成するとのことで、狙いは経営者が社内にライバルを作り俺をもっと働かせることではないかと踏んだ俺は別の会社にもっと高い給料で誘われて辞めた。
月給は上がったが、そうすると毎月働かなくても丸ひと月休んだりも許されたので、お財布を多少固くして遊んでいた俺は大学に落ちたという噂がつきまとった。それは服装やケチから来る街の噂で俺の経歴とは無関係だが、東京商船大学に落ちているものの噂が東京大学卒業だったので離職とのトレードである。家族も「落ちた」と言い出したのは俺の給料がアテに出来ず発破をかければムキになってまた働くと思ったからだろう。スーツを着て働くとまた大卒に見えるからである。
近所のおばあちゃんに
「あんた落ちたんか通ってんのかどっちや」
と聞かれて
「俺は落ちてるし通ってるんや」
と言うと混乱した様子で
「わからへん、落ちたんやな」
と言うと
「そうやな、落ちてはいるな」
と答えた。
まあ、おばあちゃんは「大学」というのはひとつの所だと思っていると落ちて通ることはないのだが、世の中にはたくさんの大学があり多くの学生は志望を落とすか併願で望みではない大学で生きるために働いているのだ。
俺に誰かが
「落ちた」
というと周りの人間まで肩をすくめるということは何度も経験した。
大学の進学率も上がり、私立大学でも胸を張って生きている若者からは当時の受験事情というのは察することができないかもしれないが、多くの人間は落ちているし通っている。そして自分よりバカだと思う資本家に学歴をお金で買われて望まぬ仕事を嫌々してきたのだ。