昨日は頭がおかしくなりそうだった。
今朝になると落ち着いている。
4時ごろつけっぱなしのテレビで焚き火が写っていて、パチパチメラメラと燃える音に「火事かな」と思って目が覚めた。もういちど寝て朝食をとり昨日の勉強の続きをした。
高校で英語を学ぶ意味を全て知っているわけではないが、欧米の方が優れていて英論文を読み書きする助走として高等英語教育がある、というのは大学進学が前提になっている論理だが。
確かに高校英語が出来て辞書で少し補えば米マイクロソフトの技術文書が読めて、それで20代の仕事には足りていたのであの頃から俺は「充分に勉強した」と思っていた。
しかし俺は病気で倒れ、病気は障害と認定されて福祉の助けを借りて生きている。かつての俺なら無駄な社会の荷物程度に考えているものに自分自身がなってしまったのだ。
そうなってからの勉強は実務のためではなく趣味色も強いが、病院や福祉関係者は俺は病人で休むことが公平であると言ってくれるのに対し、仕事が上手くいって偉そうだった俺が病気で強気にものを言えなくなってから専門卒で見識が狭く大学の方が上であることを認めろ、というように接してくる人もいて、抗うためにコンピュータ以外のことを学んでいる。
マウントを取るためには経済学や文学より偏差値の高い医学部や法学部が良いだろうと単純に偏差値の大小を比べて六法全書や医書を仕入れて読んでいたこともあるが、医書もほどほどに西洋医学だけではなく東洋医学の本も読むと、ついにチベット医学のページにたどり着き、風という漢字に「ルシ」と読み仮名が振られていて文字が小さく気が狂いそうになった。
ファルシのルシがパージでコクーンみたいなネットスラングが交錯して、何も触っていないのに何かで頭を触られているような不思議な触覚で朝までそれが続いた。
まあ、それはそれで置いておいて高校生物の樹木の生態などを読むと分かることなので安心して勉強をしたという満足感を得られる。
何も分からない外国語が辛い。日本語は言葉の意味以外の「こういうシーンでこう言う」のハウツーの無数の幼少期の体験から小学校う中学高校で文法を学び、広辞苑で意味を深め、古文と漢文で由来を知り、今ではワープロソフトの補助もあって自在に操れるが、第二言語の英語はユーロ圏で訛りのように類推することの助けとなる。
そして世界史も高校では西洋に重きを置いていたのは前述の通り「進んでいるところから学ぶ」という立場に立っているからだ。それげ復習というよりインド中国から日本に伝来している仏教やシルクロード方面の勉強をして、ついに日本に流入されて馴染みのある言葉ではなくチベットまで旅ではなく読書で学ぼうとし始めたのだ。
そりゃ、分からなくて当たり前だなと思う。だが、それが旅ではなく座学で学ぶ選択の安全性とのトレードだろう。何から手をつけたらいいのかは分からないが、俺の知らないことはまだまだあることは分かってきて、知らなかったけど存在は知ったということが今までの勉強は足りているという感覚を刷新したのでモチベーション維持としては充分である。