最後の一歩を踏みしめた話

 昨日の記事で「粋(いき)」とは何か考えていたが、ふと簡単な掛詞で「活魚(いきうお)」なのではないかと答えにたどり着いた。特に町人文化というか俺の住む現代ではスーパーマーケットが主な商店であり、そこではスナック菓子やパンに弁当なども買えるわけだが、魚もお肉も鮮度が落ちるのは早く、食べられなくなったら捨てられるので、そういう賞味期限の短いものから購買してスーパーの商売が上手く回るのを手伝うというようなことが単に粋(いき)と活(いき)の掛詞だけではなく好まれる消費行動であるということも言えるのではないだろうか。次に行ったら弁当ではなく鉄火巻きでもどうよ。

 魚の話に合った写真を撮るために魚の図鑑を用意した。

 この頃、考え方がスッキリし始めている。漢字の音読みで育った俺がやまとことばが混ざることで一般的に言われた男と女で話が通じないということも、益荒男と手弱女で同じことをどう言うか。男性は書き言葉の漢字を音読みで読み上げるが女性は話し言葉の訓読みで読み上げる。昨今ではジェンダー平等などと言い男らしさと女らしさが差別であるという批判もテレビ等の言論で飛んでいるが、事の成りたちを弁えない馬鹿げたことだと思っている。女性まで漢文表現か英語を使うことで、日本らしさが消えそうになっているのだ。

 但し、奈良に住む俺の思う「日本らしさ」もそろそろ売り切れの感があって、国語の発祥が口承から仏教伝来とともに伝わった漢字の改造で話し言葉を記録する仮名文字が出来て、それ以前は人文発祥の前になるので遺跡発掘くらいしかすることがなく、時代を進めると開国とともにやって来た蘭学をすることとなるので、文系進学でも国語を取って漢文に行くなら中国やインドをルーツにして英文科なら英仏を学ぶのが通例。そして理系科目も科学の発祥が西洋になるなら合わせて学ぶ語学は独(ドイツ)が通例。

 しかしそれ以前にも何らかのケースで漢訳されたものが渡来したり蘭学国学に馴染んだりして、国文を学ぶだけでも分かることというのも幾つかある。ひとつはツイッターでも言ったが、儒教道教について同じく「みちをおしえる」ということ。

 そして最近の気付きでいちばんヤバいと思ったのが「仏(ほとけ)」と「物(もの)」の音読みが同じ「ブツ」であること。物的証拠のあるなしが仏教の根幹である「今」の姿そのもので、昔はどうだったとか将来どうなりたいとかではなく、どんな物が今あるかを五感で確かめることが瞑想で得られる究極の姿なのだ。

 失くしたものに囚われているのだ。人は夢を見ているというのは将来とか未来を見ていると思うかもだが、子供の頃の夢がテレビに映った歌手で流行りすたりで登板が無くなったことを思い出して悲しくなっているのが夢として自分も歌手になりたいというような夢を生むのであって、人間の脳はメモリとプロセスしかない電脳理論でもって考えて、遡ることを基調としていて、そして物の動的性質を扱うのが物理学なのであろう。

 そこまで考えると、もう高校は完全に卒業したのではないかと思える。実際卒業しているのだが、それは不勉強で補習を受けてどうにか卒業だったのでやり残しの感が強かったのだ。国語は得意科目で、物理は選択科目だったが、他にも幅広くやって、高校で教われることを自分なりに組み立てるようになって、晴れて卒業なのだ。


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