何かが必ず上手く行くよりも失敗を許容する

 「正しいものの考え方」とされる科学の前提は論理的であることだ。

 何かやりたいことがあって、必ず上手く行くとか再現性がある。良いことに思える。

 ただ、幼い子供が科学的になるまでの子育てや子供の人格に再現性はあるのかというと、ある程度まで物心がつくと悪事やウソを見抜くように子供の考えることは分かるとする派と、全く混沌としていて子供の考えることは分からないという派に分かれる。

 身近な体験で行くと、長く一緒にいると分かると思えた時期はあったが、ほったらかしで別の生活が続いていると、久しぶりに会った時に全くの別人で分からなかった。

 その責任を学校とか先生に押し付ける結果が昨今の教育現場の過労だと思う。いらないことは学校で覚えてくると考えていたこともあるが、全部管理してやろうというのが子供の人格無視であるのかもしれない。

 また、人間関係には勝ち負けや損得があって、それらは天秤にかけて常に釣り合うように出来るかという問題もある。価値や得が成功であるという論理でモノを考えるもの同士が互いに相互利益の関係を結べるとは限らない。ここに正論を持ち込むなら、互いに最大限得をしようとして交渉した場合の落としどころは損得無しの引き分けになる。

 大人が皆そういう風に育った時に、真っ先に狙われるのが小遣いを持った子供なのがそういう理由から来るのだろう。

 金持ちの子供に悪い友達が出来てカネをせびり取られて親の金を無心するというようなことは、各所で再現している。それが嫌ならいじめを苦にした登校拒否を受け入れるか。子供には高い教育を与えたいという親がいる一方で、子供の時に学校でひどい目に遭い子供を学校に通わせるのが心配だという親御さんにも会ったことがある。

 何かがうまく回っている社会には不確定要素を増やす子供を受け入れる余裕が無いのだろう。子供は混沌としているものだからだ。

 酒を飲んだので、以上の論議よりは非論理的になっているかもだが、子供が標的にされると言うとおもちゃ産業が思い浮かぶが、おもちゃにもそれを作る工程費用がある以上は無用のものとされても無価値なものではない。

 俺は坊ちゃん育ちなので玩具は好きだし、豊かな社会の例として大人でも多くの玩具を持っている社会みたいなものを思い描いている。おもちゃを作るという意味でもおもちゃのために働き、おもちゃを買うという意味でもおもちゃのために働く。

 だがそれで得られるのが寂しいおもちゃ遊びなら、それは本当に豊かなのか疑わしい。自然と人間の関係があって、人間と人間の関係がある。自然から乖離した生活で玩具が豊かにある。この間に何らかの欺瞞があるような気がしてならない。

 その意見をぶつける先がこうしてコンピュータでブログにぶちまけている、それしか方法を考えついていないというのが所得では測れない俺の貧しさなのかもしれんな。


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