今日は「サヨナラの意味」を2パターン視聴

 あんまり自分の過去はえぐらない。治りかけているかさぶたを無理やり剝がしたらまた血が出るわけで、今それ以上の自己分析は自傷行為だと思うことにした。

 乃木坂46の「サヨナラの意味」をバージョン違いで2回見た。ひとつの悔いとしてはコンサートには行ったが握手会に行かなかったことだ。今からでも現役メンバーの握手会ならあるんだなぁ、ということをスケジュールのみ確認した。

 アイドルが歌って踊る映像はまるで6年という歳月が経ったことを無かったかのように忘れさせてくれるが、MVのほうは含みのあるショートムービーで謎が多い。それも深く考えすぎないように、含みのあるように作る手法が使われたのだろうと考えをとどめる。

 歌詞を文字で読む。推しがセンターで卒業という所に選ばれた歌詞なわけで、まあ乃木坂のファンはたくさんいるから特段誰かにひいきして書かれたわけでも無いと思うが、それでも自分宛というか自分みたいな奴等宛てに書かれているのだろうと読む。

 あらためて考えると、アイドルというのは偶像であって人間とはちょっと違うのかもしれない。歌や舞台があって、演者でありながら、その演者としての人間性はどこかに隠して役としての人間性を想像して楽しむもので、ひとつ笑顔で歌うという猿芝居でも名曲が乗って演者が美人だとコロッと引っかかる人がいるもので、騙されまいと頑なに拒むではなく、騙されちゃったら楽しいもんだと思う。

 あの頃の俺の悩みはそういう風に美醜で見て、美しいと思うものを客体で見ていたいとは思うものの、実際に自分の身の回りにいる女性をそこまで好きになれないという自分の冷たさに自分で嫌気がさしていたのかもしれない。

 まあ、もっと言うと自分で鏡を見たときに自分が嫌になることがあって、旨いものを食ったら「ほっぺたが落ちる」というが、慣用句としてではなく、本当に味の良いものを食って満たされると、頬が下がってくるのだ。反対に精悍な顔つきというのもあって、厳しい筋肉の使い方などで苦しみや痛みに耐えると頬がこけてくる。これが原始生活での狩猟能力と比例していて、人が感じる魅力的な異性の顔の基準ではないかと思う。辛いものを食べたりしても顔つきは変わる。

 そして美人と向き合うには美男でなくてはならず体重が増えたら筋トレをして頬が落ちたら辛いものを食うという自分いじめと美食や怠惰という幸福は相容れない気がして、しかしそれは商売でカネを持つとか何らか美男にまさる交換条件を持ってすれば相手の方も芝居で騙そうとしてくるなら、そこに眼福はあるのかもだが、それなら最初からテレビでも見ていれば映像に騙されておいて異性には騙されないということも成立する。

 つまり俺は自分が人を愛せないようでいて、美人を目指して何らかの自分磨きをしていたのだが、その過程で大願成就の前に本意ではない女性に近寄られ、それに対して愛せないと悩み、また相手からも自分磨きというか仕事や美容をサボることを許されないという恐怖のようなものも感じていた。

 いっそ全てやめて堕落したところで、病院で待ってくれている看護婦さんとかに気を許してしまったりするのだがな。

 だが、世の中には精悍とは言い難い頬のこけていないガタイの良い人間というのもいるような気はする。そう考えると自分の価値判断が間違っているのかもしれんよな。

 そう言ってサボって怠けたのではモテるようになれるかもしれないものも不意になる。まあ、世の中には楽をしたくて楽を許容してくれる相手が良いという夫婦もいるのかもしれないがな。色々な人と付き合って選びたいと企みながら先にその色々から選ばれたらどう対処するのか、という問題から引きこもって自分で何らかの努力をする。

 そうすると芸能界引退を決める人の動機もまた見えてくるのではないだろうかと。


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