今日のマジックザギャザリング(全ての土地から白が出るように)

バントビートを組んでから長きに渡って実験を繰り返し結果ほぼ単色に。

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白白のカードが7枚で安定的に出すために全てを白の出る土地に変更。

長く遊べたのは競技的より趣味的に多色のデッキで遊んできたからで、思い返せばフリーデュエルで多色で遊んでいる人も大会では色を絞ってくることもある。メインデッキでデュエルスペースで遊ぶと対策されてどうしようもない感覚にハマることもあるけど、そのまま人の多いトーナメントに出てみると色々と当たって案外何とか勝つこともあり。

これ格闘ゲームでもゲーセンと大会で何度も同じような罠にハマったな。目立っていて、狙われたりスパイされたりしているだけという。強くなったと思う部分もあるけど、勝ちたい人の横並びの列に参加して収まった感じもある。

遊びに行くときにフリーデュエル用のデッキを作って、人々の出方を伺うとか、そんな作戦を考えたことすら無かったように思うよな。ゲームのカードプール全体を見渡して究極的に何が強いかみたいな考え方の割に全部買うってことをしたわけでもない。

そしてネットや大会情報誌から前回優勝の二番煎じを狙う人への嫌悪感とかもあったよな。誰しも勝ちたいわけだし、ルールの規定内でやってはいけないことをやっているわけでもない人を自分ルールで咎めたところでどうなるものでもないし。

皆が最も強いデッキを求めたらそれ以外のカードが余るので余り札だけでお金を出さずに遊べるという貧乏根性で事に臨んでいて、お金を賭けて賞金を狙うとただの賭博だし、かといって余り札で出来たデッキでも参戦に参加費がいるのは近頃ではそれすら勿体無い。

社会人ゲーマーの輪にいた頃は遊ぶのには遊び代がいるって考え方だったけど、暇人になると遊び代をもらって遊べるなら働かないで遊んでお金儲かるやんみたいな発想に変わる。その論理にもっと早くから気付いている人がプロなり店なりをしていて、しかし気づく人が露骨に増えるとプロも気楽な家業ではない。だからお金を落としてくれる社会人ゲーマーの弱いデッキを勝たせるってのも店の計算に含まれていて、お金払う気がないなら出しゃばらないのも生き方。

MTGを辞めてカルドセプトで研究しようとして飽きるまでやってから、MTGも考え方が変わって存分に煮詰めることが出来たと思う。デッキを先に見せて後出しで対策デッキを組まれるとまず勝てないわけで「やりたい!」って人が少ない時にその人を囲んで周りが対策デッキばかり考えるという渦の中心から出てみると「ああ、何やってんたんだろう・・・」と。

漫画カイジの限定ジャンケンは極端な比喩表現だけど、案外と正しいのかもな。カードを買って持っていてそれで優勝を夢見ているという心境それ自体が莫大な借金と同じという。生活にゆとりを持って、勝ってやろうと思わなくても楽しめる無理のない範囲で遊びながら、考えるところは考える。その付き合い方が出来ていたら問題は無いのかも。

家を片付けて、出来たらソファを置きたい。ゲームはプレステやDSをたまにするだけで充分に楽しめる。それでもマジックザギャザリングにハマったあの泥沼の数年間は思い出すと何だったのか。まだまだ心の借金が返しきれていないような感覚はあるんだよな。

強いデッキが出来たとして、それで満足行くまでこちらが勝っている状態で遊び続けてくれる人見たいのが居ないから、やりたかったら自分で仮想敵を作って研究するしか無い。遊んでお金を儲けたいならお金を出さない人はまともに相手してはいけないみたいな意味で、俺はマジックザギャザリングのファンの中ではそこまで買わないほうなので賞金大会以外の遊び場で存分に人と遊んだ経験のない寂しさみたいのをカードに思い込めているんだ。

まあ面白そうに見えるけど実際に何度繰って遊んでもすぐに飽きる代物だから、遊びの中での経験より確率計算が物を言って単色とかになるんだけど、それではセットに色々と含まれている多様なカードが生きて見えることはない。

「出来たら赤も入れたいなぁ」みたいな欲求からデュアルランドに手を出してお金を使ってもらうために初期セットではデュアルランドがレアカードで高価だったみたいな話だろうな。

なけなしのようでいて、集めるのに飽きて全部捨ててから実戦をヒントに強いと思うカードをこつこつ集めてきた集大成なわけだから、贅沢な持ち物に分類されるのかもしれないよな。

売れば値のつくカードを繰って遊んでいるわけだからな。同じやるなら白騎士より赤の焼きでやるべきだったみたいな後悔も無いわけではないけれど。


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