病みつきになる程

 今年は国語をもう少し勉強することにした。

 俺の言葉は壊れている。言葉の使い道として「通じるか」ということに重きを置き、そして丁寧に勉強して長い話をするのが面倒なので略語を使う。若者言葉と「若い女の子は箸が転げても可笑しい」というような雰囲気が混ざって、さらにコンピュータ用語やゲームのキャラとかトレカの怪物などの固有名詞も混ざり、子供っぽい趣味だと馬鹿にされたことに臍を曲げて独自の友達言葉で大人を仲間外れにすることで抵抗してきたのだと思う。

 確かにゲームで遊んでファーストフードを食べて、面倒なことはせず楽しいことばかり貪るというのは幸福のひとつのあり方だとは思う。少しかじったばかりの学問で、最大多数の最大幸福という言葉に酔った。理想というやつだろう。数学的には最大幸福と最大多数は同時には満たせないというのは知っている。俺はそれは幸福をお金で考えるから、金持ちは金を使って幸福を買い、貧乏は金男もらうため働いているので、経済的にゼロサムで幸福量を増やすことはできないからだろうと読み解いた。

 仕事らしい仕事をしないなりに、考える時間は十分にあった。プログラマとして、ソフトウェアは電気でコピー出来るので、自分は頑張ってプログラムに励めば皆がコピーを受け取って同じものを持てる、だからやがて最大多数がハードウェアを持ち、ソフトは皆同じもので最大幸福となると考えた。それは独善的に自分の遊んでいるゲームや聴いている音楽が至高のもので、みんなもそれを遊んだり聴いたりすれば良さが分かってもらえるというような発想だ。

 そうしながら、同じゲームをつまらないという人、音楽を聴くに堪えないという人との交流を経て、まずは既に多数派のベストセラーを研究し始めた。研究というと大それているが、浴びるようにテレビから流れて街中でかかっている音楽それは既にパソコン以前からレコードやテープでコピーされた至上の音楽なのだろうと思うに至った。高尚な古典音楽界隈から低俗な大衆音楽であるという既に存在している批判にも気づけるようにはなった。

 そういうことは一足飛びには行かないが、そもそもである。「会社のそばの焼き鳥屋がヤバいくらい旨い」とか言うと、言葉の用法をやや間違えていて、言いたいことは「病みつきになる程旨い」だろうと正してくれる賢い仲間が俺にはいる。「ヤバい!」だけでは伝わらないが、前後の文脈があると、言いたいことを察して補正することも出来るものだ。

 俺はここでもう少し気づいた。会社でお給料をもらっても、近くに出店している焼き鳥屋で飯を食って帰る。これはとても大きな幸福だが、会社の人と焼き鳥屋の人での小規模なやりとりなのだ。炉端焼きは確かに旨い。鳥の色々な部位がひとくちで食えるように小さく切られて串に刺され、ひと串ごとにタレや塩で味が違い、飽きずに食べられてビールも日本酒も進む。そしてその様をして「病みつき」と表現するのは、どこかに現実離れした「病み」のニュアンスを含んだ食事のように思えたからだろう。ただ、語彙力が足りなく口から出たのは「ヤバい」だった。

 パチスロなんかも俺はヤバいくらい面白かった。これもギャンブル依存症などという。ギャンブルではなくコンピュータゲームにハマるのも依存症が出始めている。そして何かに没頭して周りが見えないような物好きを「キチガイ」などといった時代もある。

 これらは元を正すと「病みつき」で、幸福のあり方を考えた結果、お金で買える幸福に侵された病(やまい)なのではないかと今では思う。その考えに至ったのだ。最大多数の最大幸福は最大幸福が病みつきであって、世界中が病んでしまうような事だったのかもしれない。


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